已己巳己ブレイクダウン

時事ネタなどを起点とした思考の記録です。

ある二つの文章が「本質的には同じ内容」とはどういう意味か ~婚活極意増田より~

[概要] ある二つの文章について「同じことを言っている」と受け取る人と「違うことを言っている」と受け取る人がいる。この差が生まれる理由は単純ではなく、文脈の差、装飾と内容の切り分け方、コミュニケーション失敗の解決責任の所在、その他諸々と、複数の観点が関係している。さらには、「論理」などのキーワードに代表されるように、それらの考え方の違いを説明するための語彙そのものが異なっているために、ますます相互理解が難しくなっている可能性がある。

お題は以下です。

次の増田を 元増1 と呼ぶ。

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次の増田を 元増2 と呼ぶ。

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元増1と元増2の筆者は元増2によれば同一人物なので、まとめて「元増」と呼ぶ。

元増2は丁寧パートと罵倒パートの二部構成となっている。元増2の罵倒パートは、元増1と元増2の丁寧パートとを比較したうえで、大雑把に要約すれば次のことを主張している:

  • この二つの文章は、物腰が丁寧かどうかが違うだけで、本質的に同じ内容である。
  • それにも関わらずこの二つの文章について受け入れ方を変える者は、愚かである。

この主張について見ていきたい。

注:

  • 本稿では、比較を問題にする文脈に限り「元増2」は丁寧パートのみを指す。
  • ブコメの引用とかしますが消してほしい人は消します。
  • あまり推敲せずに垂れ流したらこのようになってしまいましたという感じ。おそらく、詳しい人(文学部で訓練を受けた人とか?)からすれば、この記事では、私がいかに無知であるかが浮き彫りになっていると思う(まあ普段からですが)。なんかいい感じの入門書とかないものか。
  • 恐怖の17000字

では、同じだとか違うだとかをどのような観点で比べることができるのか、徐々に文章の外側(?)から内側(?)に迫っていく感じで見ていこう。

なお私はまあ「違う」派です。別に元増2の丁寧パートは好きじゃなくて、いかがでしたか感しか無いけど。

文脈

まったく同じ文字列の文章でも、文脈によって意味は変わるものである。

今回、元増1と元増2はいずれも増田の一投稿に過ぎないという点では文脈的に大きな違いは無いと思われるけれど、一つあるとすれば、元増2は元増1へのアンサーという体で書かれているので、その前提で読めば受け取り方が変わるかもしれない。

この点を元増がどう考えているのかは不明。次のいずれかまたは両方である可能性がある:

  • 主張A: 元増1と元増2をそれぞれ別個の独立した文章として読んだとき、それらは本質的に同じ事を言っていることに気付いてしかるべきである。
  • 主張B: 元増2が元増1へのアンサーであるということを意識しながら元増2を読んだならば、それが本質的には元増1と同じ事を言っていることに気付いてしかるべきである。

見た範囲でこれに一番近い話をしていたのが、下記の増田だ(「面白い」と言っているので面白増田と呼ぼう)。

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面白増田が追記で書いているのは、雑にまとめれば確証バイアスみたいな話で、この書きっぷりからすると、追記を書く前の時点では元増1・2の文脈的な繋がりについては意識しておらず、「それぞれ独立の文章として比較した場合に同じと言えるのかどうか」、つまり主張Aが正しいかどうかが主な関心事であったように読める。

私個人としても関心があるのは主張Aのほうだ。主張Bに対しては特に意見は無いというか、まあ、そう意識しながら読めば「ご本人の意図としては同じ事を言いたいんだな」という推測が働くと思うけど。そうして出力された結果が「同じ意味の文章」になっているかどうか…という話になってくると主張Aに吸収されるかな。以降では主張Aに絞って考えていくことにする。

(あと、文脈の話とは関係ないけど、面白増田におけるもう一つの特徴は、内心と行動という観点に言及していることだ。これも面白い観点だが、内容面に踏み込んだ話は後のほうでやるので、ここでは置いておく。)

非言語的装飾

「違う」派は装飾の違いに騙されている、という指摘がある。いや、どっかで見たけど、見失っちゃったな。「表面」という表現も何度か見た。

b:id:Gragra すき。人間がどれだけ表面的なことしか見ていないかが分かりやすく表れている

b:id:rogertroutman 物腰だけで早々に気に入らないラベル貼っちゃう人が(無視できない割合で)いるのは残念ながら事実。そして、本質を見極める前に表面的な印象で判断を下してしまう人が多いのはブックマークに限りませんね...

(増田2のコメントより)

まあ「装飾」で行くか。装飾というのもなかなか一筋縄でいかない概念だが、とりあえず、言語的なそれと非言語的なそれに分けられると思う。

今回、元増1・2はいずれも章立ての見せ方は同じだし、ほかに視覚的な特徴もないので、非言語的な装飾は考えなくて良いだろう。

とはいえ一応言及しておくと、視覚的な装飾が言語情報の受け取り方に変化を与える(そして、それは受け取り側だけの責任ではない)というケースはありえると思う。素朴なところでは、たとえば文章の一部を太字で強調した場合がそれで、人の文章を引用するときにこれをやる場合は「太字強調は筆者による」などと但し書きをつけるのが通例だ。しかし、もしかしたら「同じ」派の一部は、そのような注釈はあくまで誤読に対するディスクレーマーであるに過ぎず、正常な読解力を持つ人に対しては本来必要の無いものだ、などと主張するかもしれない。そうなってくるとややこしいが、まあ、今回の元増には関係ないので置いておこう。

書いてて、さらに関係ないことを思ったけど、絵文字って装飾なのかな?

  • C: 「それはいい考えだ👍」
  • D: 「それはいい考えだ💦」

まあいいや次。

言語的装飾 > 語調・口調

「同じ」派が何を「装飾」と呼んでいて、それは「内容」とどう区別されるのかが問題になるが、比較的分かりやすいのは語調の違いである。

  • E: 「……。これは絶対に許せない……。」
  • F: 「これは! 絶対に!! 許せないッッ!!!」

語調によって印象は大きく変わるし、その印象の違いは何らかの帰結の違いを生むことにもなりえるけれど、これで論理的な内容まで変わるとは思えない。上記の2文は、論理的にはまったく同じ内容を言っていると考えていいだろう。

ここで、「印象の違い」が何らかの効果を及ぼす以上、論理的な内容だけを取り出すこと(仮にそれが可能であるとして)に果たして必然性があるのかどうかという話があるが、この話は次項で。

さて、上記の例はせいぜい発声方法の違いくらいしかないが、言葉の選択まで変わってくると少々難しい。比較的意味の近そうな例を考えると:

  • G: 「この事態は、貴方の行動の結果と言える。」
  • H: 「てめえのせいでこんなことになったんだ!」

これは、一瞬迷うところだけど、私としては「口調が違うだけで言っていることは同じ」と考えて良いと思う。

しかし、こういうのはそうとう気を付けないと、意味自体が変わってくる。「口調が違うだけ」と思っていても、内容自体が違う可能性も普通にある。類似の指摘:

b:id:nandenandechan 言ってること違うけど。何をしたいんだ。内容を変えずに、口調だけ変えないと比べられない。/何度も書いてるけど成婚白書を見よう。成婚した人の年齢別の年収から見合回数、活動期間まで詳細が載っている。

まあ架空の例文をもう一つ見てみよう。

  • J: 「この情報の機密性を維持していただきます。」
  • K: 「このことバラしたら、てめえ、終わりだからな!」

これ同じかなあ!? っていう話を後でまた。

とりあえずこの時点では、次のことが言えるだろう:

  • 増田1と増田2は、少なくとも語調や口調の点ではまったく異なっている。
  • 内容自体も違う可能性があるが、それは語調や口調の違いからは断定できない。

言語的装飾 > レトリック

レトリックへの言及:

b:id:cocoaCargo 修辞学。指示する内容が同じでも伝え方で受け手にとっての意味は全く異なる。効果的なパワポの書き方はよくホットエントリに上がるのに、何故か文章になると書き方はどうでもいいと考える人が増えるのは興味深い

後半の私の理解が怪しいけど、氏はどちらかというと「伝え方」の違いを軽視しないほうであると読める。

しかし逆に、元増1と元増2はレトリックが違うだけであり、読者はそれに騙されている、という見方をする人もいそうだと思われる。

ここでは、本当にそうなのかどうか、そもそも元増1・2のどの部分を「レトリック」と呼んでいるのか、はいったん置いておこう。仮に「レトリックが違うだけ」と認めるなら、それは元増の主張の正当性の説明として十分なのか?

まず、レトリックというものは完全に内容から独立した装飾でしかないという見方があり、これはそこそこ一般的ではあるが、『レトリック感覚』では、その装飾と思われている部分を変えることでまさに本質的な内容が失われてしまうこともあるのだという話をしていた記憶がある。

bookclub.kodansha.co.jp

とはいえ、これは、あくまで情緒的なものが主題であるような文章についての話で、「論理的な内容」が主題である限り、レトリックは非本質的な装飾だとみなしてよい、という考え方もありそうだ。いったんそれを認めるとする。

しかし、前項でも一瞬出てきた話だが、「論理的な内容が主題なのだから、レトリックの違いを気にするほうが悪い」と言っていいのかどうか。

いくら論理的な内容が同じでも、それ以外の要素があまりにノイジーであれば、論理的な検討を行うにあたって過剰なコストがかかるという問題がある。例えば Wikipedia の「詭弁 - Wikipedia」の項目に loaded language というものがある。古典的(?)なところだと「撤退」を「転進」と言い換えるようなアレだ。こういうのは、その文章の「論理的な内容」の理解を妨げる効果があり、もしそのせいで誤解が生じたのであれば、読み手の側は書き手の「真の意図」については推測する以外になすすべがないので、ふつうは書き手の側に分かりやすい書き直しの要求がなされるものである。おそらくこのことに元増および「同じ」派の一部は同意しないかもしれない、というのも、確かにコミュニケーションというものは読み手側の姿勢が非協力的だと成り立たないので、読み手側がふんぞり返ってばかりもいられないんだけど、それは書き手側についても同じ事である。

まあしかし、仮にこの問題を置いておくとしたらどうなるのか、さらに考えてみよう。というのも、まだ問題がある。今まで無批判に使っていた「論理的な内容」とはいったい何なのか?

言語的内容 > ロジック

ここまで挙げた要素を排除して残るものは何なのか。よくよく見ると、元増にもブコメにも「論理」とか「ロジック」とかいったキーワードは出てこないんだな。元増みたいな人、よくそういうこと言う印象あるんだけど……こういうの ↓ とか。

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今回の元増の範囲だと、下記のコメントくらいか。

b:id:pyrrhogaster なぜそんなに鬱憤が溜まっているのか「精神分析」して優位に立とうとする意見が目立つが、増田が一番鬱憤が溜まりこれを書かせたのは、はてな民の論理性の欠如のせいだと思う

(元増2のコメントより)

今回、元増や「同じ」派の人は、元増の言う「本質的内容」を「論理的内容」と呼び変えることに同意するだろうか? これが予想外に面白いポイントだという話は後でするけど、一旦は、同意するだろうと仮定する。

「論理的」という言葉の意味は文脈次第で大きく変わる。形式論理に落とし込めるかどうかで考えばいいんだろうか? しかし、論理操作をしたいわけではないので、もっと簡単でいい気もする。

とりあえずは、装飾(と一部の人が呼ぶところのもの)を排除すればいいのではないか。そのために、できるだけドライな言い方に統一してみよう。

上の方で出てきた例を再掲(なんかChatGPTに適当に頼んで出てきた例文をアレンジしたものです):

  • J: 「この情報の機密性を維持していただきます。」
  • K: 「このことバラしたら、てめえ、終わりだからな!」

「この情報」「このこと」が既知のものであること、発言者である「私」が聞き手である「貴方」に話しかけている状況であること、それ以外に特別な文脈を仮定しないことを共通の前提としよう。このとき、J は次のように言い換えられる:

  • J-1: 私は、貴方に、この情報を外部に伝達しないことを要求する。

K も同じじゃんと思われるかもしれないが、K は次の2つの内容を含んでいると思う:

  • K-1: (J-1 に同じ)
  • K-2: K-1 の要求が守られなかった場合、貴方は不可逆的な損害を被ることになる。

このように書くと、K-2 は、少なくとも「論理的な内容」の一部には違いないし、かつ、J の内容には含まれていないことだ。

ここで「J の人もそういう意味で言ってるよ」とか「K の人は K-2 のことを本気で思ってはいないよ」などと言う人も現れるだろうが、そうなるとややこしい。「そんなの内心の話で、わかりっこないじゃん、文字列から読み取れることだけを問題にすべきだよ」と突っぱねたいところだが、もちろん文脈次第では J から K-2 を読み取ったり K のうち K-2 を無視したりすることが妥当である可能性はあるのであり、つまり、本稿の最初のほうで片付けたつもりになっていた文脈の問題が復活してくるのであった。いや、「文脈」という観点が妥当なのか? ここはこれ以上考えが進まなかったんだけど、ロジックとレトリックという観点でなら元増を擁護できる気がする。そこは後述。

内心 vs 行動

面白増田より

プラグマティズムじゃないけどさ、この場合内心はどうでも良くて、顕れる行為の効果についての話なんだからやっぱり一緒なんじゃないの?

これはなかなか面白い観点ではある。これは元増本人も言っているし、ブコメにもある:

b:id:toro-chan まずお金を稼ぎますは極意とは思わないが、実際正しい。見下すってのは女性相手に偉そうにすることじゃなくて内面の心構えの話。モテる男性のほぼ全部、女性には言わないが内面ではこう考えてるか言い方が違うだけ。

(元増1のコメントより)

ます、私としては次のことを認めようと思う:

  • 少なくとも元増は、結果的な行動が同じになることを意図して書いている。
  • おそらく元増は、結果的な行動が異なるとしたらそれは少なくともどちらか一方が誤読したからだと主張するだろう。
  • 仮に元増1の読者が強烈な女性蔑視を抱える男性であり、絶対にそれを変える可能性が無いと仮定して、その読者に、平均的な男性が元増2の内容を実践した場合と似たような行動をエミュレートさせることが唯一の目的であれば、確かに、元増1の文章が適しているかもしれない。

さて、まず、実際に内心がどうでも良いとして、本当に同じ結果になるのかという話がある。

b:id:kotobuki_84 同じ内容を露悪的に言うか露善(?)的に言うか、「それを見たフォロワーがどういう傾向に育つか」が変わると思う。これは極意増田に限らず、例えば、怒り剥き出しで社会正義を主張するフェミニスト等にも当て嵌まる話。

(面白増田のコメントより)

個人的にも、元増1を忠実に実行する者と、元増2を忠実に実行する者が、結果的に全く同じ行動をするとは考えにくい。

誤読に関して言えば、なにも元増の脳内情報が読み手の脳内にダイレクトに流れるわけではないので、自分の考えが何の劣化もなく文章に表れていると考えるのは過信じゃないかと思う。文章力という観点で似たようなブコメがあった(ここで引き合いに出すのが適切かどうか…私よりずっと文章に詳しいだろうし、このブコメはそんなに限定的な話をしてない気もする):

b:id:lady_joker 「物腰を変えているだけで同じ内容を書けている」と思っているのかもしれないけど、残念ながら文章力が足りておらず全然違う内容を書いてしまっている。志は買いたい

(増田1のコメントより)

それと、本当に結果的な行動が同じだとして、それなら内心どう思ってようと同じじゃん、という意見もある。これもどうかな…なんというか…。「オタクはキモいです、見下すべき存在です。ただし、そのような内心を直接伝えてはいけません」という人がいたら、内心でも見下すのはヤメロって私なら思うかな。次のブコメに同じ:

b:id:tkggohan 私は、自分が結婚した人がこれらの増田を書いていたらとても悲しい。

まあ私のこの記事もそこそこ悲しい、いや、やめろください。

さらに言うと、元増1の実践者が完璧に見下しを隠せたとして、元増1自身は増田というフィールドにおいてそれをぜんぜん隠していないのだから、そこは文句は言うよね。これに対しては、元増2でも内心では見下しているのに、それに同じ調子で文句言わないのはおかしいという反論が来そうだ。だんだん表現の自由の話に重なってきそうな予感があるが、とりあえず、内心と行動をはっきり区別するのはけっこう難しい。

最後の蛇足として、行動結果を問題にしているということは、「元増のアドバイスを聞いて実行するつもりのある者」だけが想定読者だったりするのかな? とも一瞬思ったけど、元増2を読むと別にそんな区分けは設けていないような気もする(設けていたとして、だからなんだという話でもある)。

雑なミラーリング

をしようと思ったけど、難しそうだったのでやめた。

元増1を(部分的に)擁護する

趣向を変えて、元増1を私が同意できる範囲内で書き換えてみる。といっても全編ではなく、「女を見下せ」のくだり。

  • 一部の(しかし少なくない)男性は、人間関係について次のような考えを持っている:
    • 対等な関係とは、気遣いによって疲れる度合いが双方ともに最小化された関係である。この関係は、互いに、相手は自分の不満を自分で解消する能力を持つはずだと信頼することで成立する。
    • 上下関係あるいはそれに準ずる何らかの非対称な関係(年長者と年少者、上司と部下、保護者と被保護者、サービス提供者と顧客など)においても、互いの配慮は重要ではあるが、これは「対等な関係」とは別物である。そのような配慮を「対等な関係」のなかに持ち込むと、対等であるはずの相手との間に実は上下関係があることを示唆することになり、無礼ですらある。
    • (ややこしいことに「対等な関係」のなかでも一切合切配慮しないわけではなく、その温度感もまちまちなので、たとえ男性同士でも、自分の思う理想的な付き合い方を貫いたところでうまくやっていけるわけではないのだが、ここではあくまで理想の話をしている。)
  • 翻って、一部の(しかし少なくない)女性は、上記のような価値観については存在自体を知らないか、あるいは、知っていても同意・実践していない。
  • 以上の事実があるので、男性諸君は、婚活の場において成婚を目指すのであれば、次のことを意識すべきである:
    • 貴方の考える「対等な関係」の価値観を絶対視し、それを忠実に実行していると、良い結果が得られない可能性が高い。
    • 一般的に言われるような男女間の配慮や気遣いのうち、少なくとも一部については、貴方の価値観においては「相手を見下していなければ実行しないような行動」に該当するかもしれない。
    • そのような価値観は決して普遍的ではないので、いったん相対化し、行動選択肢を増やすことを検討するべきである。

「同意できる」と書いたとおり、私としては本当に同意できるんだけど、別に私は婚活する人にアドバイスをしたいとは思わないので、正確には「反対はしない」くらいかな。わりと現実主義めいたことを言ってもいるので、別方向から反論があるかもしれないけど、それはまた別の話。

いま気にしているのは、「元増1と同じこと言ってるじゃん!」と思ったかどうかだ。

私は同じとは思わない、なぜなら上記の文章に含まれる「そのような価値観は決して普遍的ではない」というくだりは元増1にはまったく含まれないし、逆に元増1の言う「女を見下せ」は、私の文章の主張に従えば「そのような考え方自体を捨てるべきだ」という結論になるからだ。

結果的な行動は同じじゃん……という話に戻りそうだ。自分の考えを言語化したりして表現するのも「行動」の一種だが、それも含めて同じになるんだろうか……いや、この話はもうやったので置いておこう。

ところで今になって見ると、元増1のこのブコメなどはなかなか興味深い。

b:id:sisya 要約して「世間的な正しさなどくそくらえ」という意味に受け取った。パートナーを作れない人は、よく分からない正しさに捕らわれてる節がある人が確かに多いなと感じる。一番大切なのは相手と合っているかということ

私の言い換えた結果だとむしろ「脱『男らしさ』」って感じになってて、世間的な正しさってのはどっちなんだろうなと混乱してきた。しかし2文目以降は何も違和感がない。それこそが本質なのかもしれない。

「原作者は神」か

別の話だけど、創作物の話題で、「ある作品がどのように読み解かれるべきであるかは、読者ではなく作者が決めることである」という主張をしばしば見かける。「公式と解釈違い」みたいなのを批判する文脈とかかな。

その類似系で、「元増1・2がどのように読み解かれるべきであるかは、元増が決めることである」と考えてる人も結構いるのかもしれない。

どうかな~。もちろん読者が全部決めるわけでもないんだけどさ。作者vs読者みたいな単純な二項対立は脱して久しいものだと思っていた。

ロジックとレトリックふたたび(元増2の罵倒を擁護する)

ここで、元増1と元増2は同じだとする意見を擁護する新たな説明を思いついた。

  • 元増1を読む際に気にするべき本質的なポイントは、まさにレトリックの部分にあるのだ。ロジックだけに着目して、書いてあることを文字通りに読み取るべきではない。
  • 元増1では「女を見下せ」などと強い表現を使っているが、通常はこのような発言ははばかられるものである。それをあえて行っていることから、読者は、この部分がレトリックであることに気付くべきである。
  • すなわち、「女を見下せ」は文字通りに解釈すべきではなく、「本当は何を伝えたいのか」について読者の想像をかき立てる効果を持つものである。
  • 「本当は何を伝えたいのか」は、強いて言えば、読者が持つ「見下し」行動についての認識を再構成することで行動変容に繋げることの勧めであるが、これを淡々と書くよりも、上記のレトリックのほうが印象深く、効果的である。
  • これは結果的に、まさに元増2が奨励しているような行動をすべきであるという主張について、説得力をもって伝えるものである。
  • ゆえに、元増1と元増2のそれぞれから読み取るべきものは、本質的には同じである。

同意するかどうかは別として、「同じ」派の擁護としては、個人的にはこれがダントツで分かりやすい。もし「同じ」派の貴方がこれに同意するなら、まあ、いろいろと次の議題はあるが、まずは貴重な合意地点を得られたことを喜ぼうではありませんか。

しかしこうなると、例えば次のブコメはどう受け取れば良いか:

b:id:toianna アスペ民としては「これは同じこと言ってるな」と思うんだけど、たぶん定型発達の人はニュアンスの方が中身より大事だから二つの文章が全く異なるものに理解されるのだろうな

(増田2のコメントより)

仮に上記の私の説明を採用すると、このブコメで言う "アスペ民" はレトリック(言葉のあや)や書き手の心情といった不定型な機微を読み取ることについてとても秀でているし、"定型発達" の人はニュアンスを無視して字面ばかりを追うせいで誤読に至っている、と言える。ブコメとすっかり矛盾しているので、上記の私の説明にも留保が必要そうだ。

さらに気になるのは、元増1・2を違うと見る人のことを「論理的に思考できない」などと評する人が、はてなにはけっこう多いように思われることだ。

そこで、まったく的外れである可能性を覚悟で言うと:

  • 我々が「ロジック」「内容」などと呼んでいるものを、ある種の人々は「レトリック」「装飾」と呼んでいる可能性がある。
  • 我々が「レトリック」「装飾」と呼んでいるものを、ある種の人々は「ロジック」「内容」と呼んでいる可能性がある。

もしかして、すっかり逆転しているのではないか。まるで貞操逆転世k

まあこの話はもともと難しくて、たとえばロジックはそれ自体がレトリックとしても機能する(つまり、論理的に見える文章というのは、実際には論理的な検証に耐えていなくても、なんとなく説得力を持つものである)という事実があるので、完全に分離できるものでもない。

あと、単純に逆転だと解釈するのもやっぱり早計かもしれない。たとえば暴言めいた指摘を「火の玉ストレート」などと呼び、一部の人はそれを論理的だと評することがある。私に言わせれば「火の玉ストレート」は、論理的には複数に分解できるはずの主張が渾然一体となった塊を投げつける行為なのでおよそロジカルではないと思うが、投げる人からすれば、これ以上分解できないアトミックな主張を投げているのだと思っているかもしれない。私も要素分解はロジカルだと思うので、まあ、その人の視点と考えに立脚すれば、確かに局所的にはロジカルなのかもしれない。ンー。

他の例: 『男を降りる』

まったく別の文脈だが、ちょうど、似たような議論のできそうな事例が来た。降り増田 と呼ぼう。

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私のブコメ

b:id:koo-sokzeshky 典型的な保守派かと最初思ったけど違うな(タイトルは明らかにそれに寄せてて、ブコメにも誤解ある気がする)。こんなサツバツな言い方しなくてもとは思うけど、男を降りるのは人間を降りることじゃないって話かと。

降り増田に反発している人もいるのに対して、私のブコメはなんだか好意的だけど、これって、婚活について書いた元増1・2を受けて「本質を読め」と言っていた人とそっくりじゃないか!

実際その通りなのである。これはこういうふうに読めますよ、と言い換えてみることは有益だと思う。

違うとすれば、降り増田が「これは○○という意味なのに、読み取れないヤツはバカ」などと主張したら、私はやっぱりそれに反対するだろう。私のブコメでも「誤解ある」と書いてしまったけど、こう書くと、まるで、ジェンダー論的思想を持ちながらこの記事に反発している人はみんな誤解しているみたいじゃないか。そんなことはないと思っていて、そもそもこの記事のテーマは一つじゃないのである。

降り増田はこの2つをセットでお届けしている。1点目が分かりにくいと思ったので、私のブコメではそちらを主題にした。私は内容と言い方をあんまり区別しないほうなので「サツバツな言い方」と書いたけど、本稿の趣旨に寄せるなら「言い方」と書くべきではなかった。

さて、まず、2点目については当然、反発あるいは疑問があるはずである。私自身が2点目についてコメントすると、たぶん似たような感じになる。

b:id:donovantree 「需要がない弱い個体は捨て置かれてさっさと死んでいたのでは。」弱肉強食的な進化論とか優生学とかネオリベの「生産性の無い者は死ね」に過剰適応して内面化しすぎでは。

b:id:mosakuneko 成長至上主義以外の価値感もバランス良く持ち合わせておくのは、生き続けるためには大事だと思っています。

b:id:quick_past そもそもが、役に立つ人間以外存在価値がない。みたいな価値観で自分を縛ってる人間が多すぎるよな。基本的人権って、そういう価値観からも解き放ってくれるはずなんだがな。

b:id:maninthemiddle もうちょっとエスカレーターの下り速度落とせるんじゃないの(=再分配率高められるんじゃないの)

一方、2点目の要素をこそ肯定する人もいる。

b:id:ShaoSylvia 表立っては「縛られなくていい」「降りていい」みたいな言葉しか言えない時代だけど、あなたが降りた後も競技自体は続いていくと周知しないのも悪魔的だよね

b:id:sds-page 残酷な世界を残酷に記述してあるだけでこれに反発したところで誰も助けてくれない事だけは確か

b:id:Yagokoro こういうただの現実に反発しちゃう奴がいるのは分かるけど、それって要するに現実逃避だからさ

いちおう補足すると、「弱肉強食的な世界観を肯定する人は、自分が強者だから、自分に都合のいいことを言っているのだ」という見立てがあるが、これは確かにそういう場合もあるかもしれないけど、一面的すぎると思っている。たとえば、弱者を自認する人であれば、「世界が残酷じゃないのなら、この私の今の苦境はなんなんだ? 100%自分のせいなのか? それを誰も分かってくれない」という考えに至るのはそう不思議なことではない。

「これが現実だ」という話については、現実主義と理想主義の典型的な衝突(理想主義者は現実を認めようとしない、いやいや認めるのと追認するのは別なんだ、etc.)になり、まあちょっと大きい話なので置いておこう。

あと、先に2点目の話をしてしまったが、逆に1点目(ジェンダーロール)だけを抜き出すと次のブコメのようになるかもしれない。

b:id:grdgs 男を降りるとはマチズモで自分をすり減らすことから降りること。女を降りるとは無駄に気を使って自分をすり減らすことから降りること。

降り増田の主張からこれを「抜き出す」ことが本当に可能なのかというのはあって、あんな書き方をしている時点で相対化できていないだろうという読み方もできる。なので、次のブコメなどは、降り増田を「誤読」していなくても成り立つと思う。

b:id:tasknow ジェンダーステレオタイプが普遍なものだと勘違いされてますね

最後に、次のブコメは、複数の観点を示唆しながらうまくまとめてくれている(なんか偉そうな論評みたいになっちゃって申し訳ないが、いいなと思ったので)。つまり、降り増田の構成要素のなかで比較的合意しやすいところを集めて再構成すると次のような感じになると思う。合意しやすさはおそらく個々の要素だけの問題ではなく、その欠損もまた合意しにくさの原因となるような気がする。上の方で「2つのテーマをセットでお届け」と書いてしまったけど、むしろ、このテーマにおいてそれは必然なのかもしれない。

b:id:Shin-Fedor 男とか女とかの古いロールには従ってもいいし従わなくてもいい。自分が演じたいロールを演じればよい。ただそれを貫くにはある種の強さが必要で「貫く強さはないけどロールは自分で好きに決めたい」は高難易度な社会

b:id:rna ブコメ「あなたが降りた後も競技自体は続いていく」どちらかというと全員強制参加みたいな競技をボイコットして好きなスポーツやろうぜって話だと思う。平均的な多数者にはチャンスよりリスクが大きい選択ではある。

いろいろ並べちゃったけど、この文章の本質は何なんだろうと考えたときに、色んな人が色んな読み方をするわけだが、みんなそれぞれ何かしら理由があるんじゃないかという話。これは別に「人それぞれですね😄」で終了させたいわけではないです、念のため。

終わり

結局なんだったんだ!

とりあえず、今はロジックとレトリックの逆転の話が一番気になってるかな。私はロジックが好きだけど、みんなレトリックの発信受信をもっと鍛えるべきだという昔の西洋みたいな話になったらそれはそれで面白い。

追記1: 「同じ」とは交換可能であることではない?

アー書き忘れてた。

もう一つの疑問として、元増1と元増2がもし本当に同じなのであれば、どちらを読者に提示するかについて特に選好が無いってことにならないか。

しかし実際には、元増1のほうを好んでいるように見える。とすると、どうしても欠かせないポイントが元増1には含まれていて元増2には含まれていないわけだから、それこそが元増自身にとっても「本質的な内容」なんじゃないか。そりゃ受け取り方も変わるし、変わってこそ元増の本懐なのではないか。大変失礼な言い方をしてしまうと、元増は自分自身が本当に主張したいことがなんなのかを言語化できていないのではないか。

というのが「違う」派の考えのバリエーションの一つですが、異論は認める。

追記2: 元増2の罵倒を擁護する・再

俺達はとんでもない勘違いをしていたかもしれない。

「ロジックとレトリックふたたび」の項で、「元増1の本質はレトリックである」という説を書いたけど、これは先読みが過ぎた気がする。

元増2のブコメ返しで、元増はこう書いている:

そもそも元々誇張して書いたけど、自分の言動を客観視すると「これって見下してるだけだよな~」とか思ってるのを出力しただけだからね。

この「誇張」がなんなのかが未だに不明だけど、"「これって見下してるだけだよな~」" を踏まえると、元増1で「女を見下せ」と書いている箇所は本当に「女を見下せ」という意図で書いているようなので、論旨には影響を与えない程度の誇張しかないと考えて良いように思える。

すると、より素直に受け取るならば、元増の主張は下記のように考えるのが自然なのではないか。

  • 元増1は元増の価値観を単刀直入に表現している。読者(反対者も含む)が元増1を読んで受け取ったメッセージは、まさに元増が伝えたかったことである。
  • 読者は、元増2からも、元増1と同じものを読み取るべきである。それができない者は愚かである。

しかし、私から見ればこれはわけが分からない主張なので、この主張について、より筋が通るように補強を試みる。と言っても全編を対象にすると面倒なので、やはりここでも元増1の「女を見下せ」の部分に絞って考えることにする。あと、ここでは、前提とする事実については私自身が同意できるかどうかを考えない。

すると以下のようになった:

  1. 対等な関係とは、互いに相手の能力を信頼し、余計な配慮や気遣い(以下、単に「配慮」と言う)を必要としない関係である。すなわち、「配慮」とは、対等ではない上下関係にある相手に対してのみ行うものである。(本稿の「元増1を(部分的に)擁護する」の項も参照)
    1. より導出: もし男性が女性に配慮するとき、それは相手の女性を上位者または下位者のどちらかとみなしている。
  2. 女性は、一般的に男性と価値観が異なり、対等な関係とは、互いに配慮することだと考えている。
    • 補足: この文脈では、配慮のことを「尊重」とも言う。これは、男性の言う「尊重」が配慮を控えることを意味するのと真逆である。
  3. 人が誰かを心から上位者と認めるのは、その相手が一定の価値観を共有している場合に限られる。
    1. と 4. より導出: 男性が女性を上位者とみなすのは例外的な場合に限られる(以降、この例外は除外して考える)。
    1. と 5. より導出: 男性が女性に配慮するのは、その相手を下位者とみなしている場合に限られる。
  4. 本来は対等な関係であるべきだと考えているような関係性のなかで、何らかの理由で相手を下位者とみなすような状況は、そのギャップを含意するべく「見下している」と表現する。
    • 補足: 上下関係は社会の基本であるから、他者を下位者とみなすこと自体は自然に発生しうることであり、悪いことではないので、通常は、ただちに「見下している」とは表現しない。
    1. と 6. と 7. より導出: 男性が女性に配慮するとき、男性は必ずその相手を見下している。
  5. 元増2は、上記 3. で言うところの「尊重」、つまり上記 1. で言うところの「配慮」を勧めている。
    1. と 9. より導出: 元増2は、女性を見下すべきであることを勧めている。
  6. まとめると、1. 3. 4. 7. 9. の事実より、元増2を読めば、それが元増1と同様に女性を見下すことを勧めていること (10.) が読み取れる。

正直ばかばかしくなってきたなという気持ちと、すごい!繋がった!という気持ちが半々という気分です。

極めて悪趣味ではあるが増田にも投稿してみた: 「婚活の極意」(女を見下せ)の証明

一応書いとくと、当然ながら論理的であることは結論が正しいことを意味するわけではなく、むしろ論理的であればあるほど弱点が増えるのだけど、それでも論理的な説明には意味がある。結論に同意するかどうかは別として、相手がいったい何を考えてるのか、どこまでさかのぼれば共通の前提に行き当たるのか知りたい…そういう人にとってはこのような論理が必要なのである。深淵を覗く者はなんとやらとも言いますが…。

なお私個人の感想としては、仮に上記のような理屈があったとして、こんなの一瞬で分かるわけないだろうという気持ち。繋げるのも大変だった。まあよく議論になるリベラリズムとかフェミニズムとかもたいがい分かりにくいし、他者の思想というのはふつう分かりにくいものであるが、まったく鏡写しだと言える気もしなくて、なんというか罵倒のしかたに特徴が出ていてそこは興味深い。

ところで、私がこのように、どうにかして元増の主張を再構成しようとしているさまは、上記の「対等な関係」理論に照らせば、もしかしたら「見下し」に該当するかもしれないな。しかしフェミニスト等が言うところの男性社会には解説好き(強弁好きではなく)の人もけっこういるはずなので、こういう解説めいたものがもっと当事者から出てきてもよさそうなものだという気もするけど。このへんはまだよく分からない。

最後に: 結局、本稿のタイトル『ある二つの文章が「本質的には同じ内容」とはどういう意味か』はぜんぜん整理できなかったな。もちろん普遍的な回答ではなく、元増やその同調者はどういう意味でそう言ってるのかってのを知りたくて、取っかかりになりそうな観点はいろいろ挙げてきたんだけど、最終的には「分からないやつは引っ込んどれ」というレベルの話に戻ってしまった感がある。私はあのような粗暴な主張には断じて反対したい。