知的誠実さとは何か (2) ~ リソースの観点からの包括的な説明
[概要]「知的誠実さ」の基準は、議論の参加者が、自分の手の届くリソースについてどのように認識しているのかによって決まり、これが一致していないと話が通じない状態となる。この枠組みによって、多種多様な「知的誠実さ」に関する意見の多くについて、それぞれの視点で正当性があることを説明できる。
- 目的と方針
- 仮説:知的誠実さの基準は「リソース逼迫度合いの認識レベル」に依存する
- リソース逼迫度合いの認識を整理すると何が分かるのか
- 「発散/収束」に対する考え方の違い
- 「議論とは何か」の考え方の違い
- 「批判」「反論」などのニュアンスの違い
- 「誤謬」「詭弁」のニュアンスの違い
- 前記事へのブックマークコメントの解釈
- 脚注
目的と方針
目的:包括的な説明
前回の記事の続きで、前回埋まらなかったギャップの解消を試みるものです。
前記事にはいくつもの反応をいただけた。私のそれも含めて全体を見渡すと、主張内容はバラバラです(悪いことじゃない)。
ある発言が「知的に誠実」か否かについて、なぜこのように考え方の違いが生じるのか? それを知りたい。
もう少し具体的に言うと、この記事の目標は「一種類のモデルで、できるだけ多くの意見の正当性を説明すること」です。
方針:「リソース」に着目
トラバやブコメも全て有益でしたが、さらに前記事の記事コメントでは、id:greenT 氏と id:hesopenn 氏に多くの示唆をいただけました。
で、id:greenT 氏が「これこれのことは、アンフェアである」1という趣旨のことを言及されていた(そういえば「フェアネス」という表現のブコメは他にもあった)。
アンフェアとは不公平。
不公平とは、何かのリソース配分が偏っていて、誰かが不当に損をしている状態だ。2
リソースが十分にあれば配分で揉めることはない。
何のリソースが不足しているのか? それを各人どのように認識しているのか?
仮説:知的誠実さの基準は「リソース逼迫度合いの認識レベル」に依存する
思考実験として、最も理想的な文脈から、徐々に現実的な文脈を考え、「リソース逼迫度合いの認識レベル」を並べてみたいと思います。 なお「理想」とは「良い」という意味ではなく「ただし摩擦は無いものとする」みたいなアレです。
もともと「知的誠実さ」の話なので、あくまで知的活動を中心とした整理。
Lv.1 協働
ほとんどのリソースが無限に近い状態。時間はさすがにそこそこ有限としても、現代人よりは暇なイメージ。なお人間の思考能力自体は通常どおり。
リソースは十分だし、知識を独占する必要も無いので、なにかを奪うという発想があまり無い。このとき、リソース配分は問題にならないので、フェアネスとか公平性とかいった概念があまり必要ない3。
原則あらゆる知的活動は協力ベースである。
万人のため4の知識の創造・共有・蓄積(以下「知」5)を共通の目的とする。加えて、各人個別に特定の話題に興味関心を持っている。
無益な議論や意見(意味不明であるなど)は、少なくとも有害ではないので、問題視されない。唯一有害なのは、間違った知識を提供することだ。「知」という共通目的を後退(≠停滞)させるからである。
捏造・改竄・詭弁・恣意的な取捨選択などは意図的な間違いだ。「不誠実」と言ったらこれのことだと思って良い(ただし詭弁については後述)。ミスや無意識から来る間違いは、有害ではあるが当然よくあるものとされ、ただ直せば良い(むしろその繰り返しこそが知的活動だ)と考える。
Lv.2 競争
知的活動に関わるもろもろのリソースが有限な状態。
知的活動の目的は Lv.1 と同じ。 ただしリソースが足りないと、自分の関心分野の知識を満足に深められないので、コスト意識や公平性が重要となる。
- 公平性のため、活動成果は個々人に帰属し、成果を出した(そのためにコストをかけた)人に報いる価値観がある。よって剽窃は非常に有害。
- 一つの論点に絞って議論しているとき、別の論点を持ち出すと余計なコストがかかるので有害。
- 論点の合意がないとき、自分の関心とは別の論点ばかり話題にされるとアンフェアに感じる。
- 無益な情報が大量にあると有益なものが埋もれるので有害(学会の発表時間を無益な質問で食い潰すなど)。
- 既にある程度コストがかけられた議論に対して、修正を要求するとき、要求側が何もコストを払わなければアンフェアとされる。
不公平や有害さは、制約上どうしても発生を防げないが、少なくともそれを抑えようとする努力が無いと、不誠実と見なされる。
ミスや無意識から来る間違いも一発アウトとはならないが、コスト面で程度はなはだしく、かつ修正・改善の意思がなければ不誠実とされる。
Lv.3 衝突
知的活動に関わらず、生活上のいろいろなリソース(金銭なり権利なり)が有限な状態。 現実的な利害関係が切迫した問題となる。
フェアネスの概念はちゃんとあるが、知的活動だけでなく、社会的な意味でフェアな状態が望まれる。
社会的なフェアネスを目指さない姿勢は不誠実(ただし合意はとても難しい)。それに比べると、「知」だけを目的としたときの誠実/不誠実の判断は、必ずしも最優先ではない。
Lv.2 までは「知」が最優先の目的だったが、Lv.3 では生活維持や権利獲得など別の目的が優先されることが多くなる。Lv.2 までは理論上は全員の合意を目指すことが可能だったが、Lv.3 では検討結果が個々人の現実的な利害に繋がるため、そうもいかなくなる。そのため「合意しない人がいるとしても、なにがベターなのか」を追求することになる。
議論などの知的活動が、「知」ではなく、利害関係の調整を目的として行われる場面が出てくる。主張が衝突するとき、互いに自分の主張の根拠を論理立てるなどして妥当性を示し、説得力の高さを競う。
Lv.2 までで言うところの知的活動に対しては、以下の悪影響が発生する。
- ある主張が通ってしまうと社会的/経済的に損害を受けるので、自分としてはその主張を認めがたい、という事態が生まれる(誤認を含む)。
- いわゆる滑り坂、つまり、ある穏当な主張を通すと、つられて過激な主張が通りやすい状況ができてしまう、という心配が生まれる(誤認を含む)。
- 「知」とは別の目的で対話に参加し、詭弁や罵倒を用いる、という動機が生まれる。
- 「知」とは別の目的が優先され、論理的な検証がおろそかになりやすくなる。
リソース逼迫度合いの認識を整理すると何が分かるのか
上述のように並べてみると、Lv.1 では問題視されないはずの行動が Lv.2 では不誠実になる、という構造が可視化されます。
ある空間が Lv1~3 のどの状態にあるのか、その認識が一致していないと、話が通じなくなってしまう。
極めて大雑把な傾向としては:
- 政治に強い関心がある人は、やはり Lv.3 に近い世界観を持っているでしょう。
- 学問(特に政治利用されにくい分野)の研究活動は、主に Lv.2 でしょうか(人によっては「本来 Lv.1 であるべきだよね」という認識を持っている、たぶん)。
- 局所的には、たとえば信頼できる相手との対話には、場合によって Lv.1 の認識で臨むこともあるでしょう。
注意点
上述の「リソース逼迫度合いの認識レベル」の整理について、注意しておかねばならんことがいくつかります。
- はっきり分かれるものではない
- 「なんとなくこのへん」を考えるためのものに過ぎない。
- Lv.1 を極端にすると完全に非現実的だし、Lv.3 を極端にしたら対話の余地がゼロになって地獄だ。
- 局所的な話である
- ある人が、ある話題について、ある場において、あるタイミングで、主観的に、どう認識しているか? の話です。
- すべての話題を一度に考えたら、そりゃ Lv.3 の世界観でやりあうしかない。
- あと性格分類みたいなことをしたいのではない。
- 単純化されている
- たとえば、すぐ思い当たりそうなこととして、「知的活動におけるリソースは余っているがそれ以外が足りない」みたいな状況も理論的にはある。
- しかし、今回説明したい内容からすると問題ではなさそうに思えたので、そこまで考えなかった。
- 説明に困るようなら修正が必要でしょう。
どの認識を取りたがるかは目的によって変わる
Lv.1 のような価値観を提示すると「お花畑かな?」という人も多いですね。この言い方の場合、おそらく Lv.3 の認識で話しているだろう。
確かになんらかの利害について関心がある場合、Lv.3 がデフォルトの状態となるでしょう。これは当然のことで、なにしろ他人がみな善意で動いていると思っていたら自分は損害ばかり被ってしまうはずである。安全側に倒すなら、他人の利己的な動機を疑わなければならない。
一方で、知識に関心がある人にとっては、Lv.1 に寄せていくことについて強力な動機があることを知っておいてほしい。
Lv.3 の側に行けば行くほど、「正しい知識」「良い結論」を阻害する要因が多くなるからです。
なのでそういう人にとっては、リソースが許す限り自分の認識を Lv.1 に寄せつつ、話し相手にも同じ認識を持つようにリクエストすることが、目的に向けた最善の戦略になるのです。
ちょっと例を出しておこうか、例はいろいろありえるのでこれだけだとミスリーディングの懸念があるけれど……
この例だと教室というリソースを巡って争いが起こったわけだが(Lv.3)、そのリソースだけに着目しているとゼロサムの対立構造になり、最後の解決策みたいな発想は出てこない。持てるリソースについては確かに正しく把握しなければいけないが、それを「取り合う」ことだけに集中していると真の解決が遠のくよという一例です。まあ逆に「真の解決」よりも防衛戦を優先しなきゃいかんケースだって確かにあるんだけど。
あと、知的生産性を気にする人は Lv.2 に近くなるはずで、それに対し Lv.1 の観点から「本当にこれだけしかリソース無いんですかね」「この場で決着するのが本当に最善ですか」と疑問を差し挟むこともあるでしょう。個別の話は結局ケースバイケース。
「発散/収束」に対する考え方の違い
ブコメのなかで「議論を永遠に発散させるな」「議論の収束を妨げるな」といった意見が複数ある。これについては補足が必要でしょう。
知る限り、議論における「発散」「収束」はコンサル業界由来の用語という認識です6。
より良い結論を出すには、次の二段階を順番に実行すべし、という経験則だ。
- 【発散】まずは多様な観点、質より量で、意見を出しまくる
- 【収束】出そろった意見を選別・統合して一つの結論にまとめる
Lv.1 観点の発散/収束
最終的には収束させたいが、視野が狭いまま収束してしまうと間違った結論が出るので、発散も重要と考える。
人によってどっちの段階が得意かが違うので、その意味でも、複数人で意見を出すことを有意義と考える。
いっぽう、時間は十分にあるので、そんなキリキリしないほうが良い結論を出しやすいんじゃないのと考えることもあり、収束を引き延ばす選択がありえます。
Lv.2 観点の発散/収束
議論のコスパ向上こそが「発散/収束」の大きなメリットなので、これは Lv.2 の問題意識によく合致します。
発散は重要だが、時間切れになっては元も子もないので、最終的には無理矢理にでも収束を優先する。
また、いつ、どの場で、どっちのフェーズなのか、という合意が重要となる。でないと「こういう観点もある」→「いまその段階じゃないでしょ!」という事態になってしまいます。
より広い文脈で考えると、大きな問題に対しては発散と収束を繰り返すので、段階の認定はけっこう流動的です。また、さまざまな論点に対する発散・収束が同時並行で行われるはずだから、混線の危険もある。
Lv.3 観点の発散/収束
どの話題だろうと、フェーズ選択権を握ることが急務となる。
有意義に進んだ議論については、早々に収束させたい。id:whkr 氏などが指摘するように、都合の悪い議論を永遠に発散させることで邪魔する戦略がありえるからだ。
もろもろの問題について、どこもかしこも一向に収束を見せない現状について、業を煮やしている人も多いことだろう。
このような意味で、発散は攻撃行為、収束は防衛行為といった風情になる。
はてブにおける発散/収束
仮にはてブで「議論」なるものを行うとしたら、ブコメ空間のUIはあきらかに発散に適していると言えますね(収束させるにはワーキングスペースをみんなで共有し、何往復もやりとりする必要があるので)。
とはいえ、常に発散すべきというわけにもいかない。そして、一般的にブコメ空間でフェーズ選択の合意がなされているかというとかなり疑わしい。
個人差あれど、だいたい次のような考え方になると思われます。
- Lv.1
- Lv.2
- Lv.3
- ブクマ対象の内容次第で、良い内容なら肯定や補強に努めて収束を目指し、悪い内容なら収束価値がないので発散に努めるでしょう。
- その場の人気コメントなどの大勢にも左右されるでしょう。
「議論とは何か」の考え方の違い
- ちゃんと議論しようよ!
- ブコメで議論なんて無理だよ!
- そもそも議論ってのはさあ!
などなど、たまに話題になるかと思います。
どうもなかなか溝が埋まらないなと感じる人も多いはずですが、以下のように分けると「人それぞれ」論を脱出できるかもしれない、と思いました。
Lv.1 観点の「議論」
「知」を目的とした対話はすべて「議論」です。
議論は常に協働的な行為であり、互いに得るものがあるはずだという前提で行います。議論目的に合意できず、得るものが無いな、と感じたときは静かに別れる。人によって関心が違うのは当然と考えるためです。
虚偽・偏向は目的を阻害するので有害と見なすが、その判断はできるだけ遅らせる。「知」を目的にする限り、その動機が無いはずであり、十中八九、単なる誤解だからです。 拙速に他者を不誠実だと見なすことも不誠実と見なされるかもしれない。相手が「知」に貢献する動機を失いかねないからです。
各自好き勝手に意見を出している百家争鳴の状態ですらも、少しでも相互参照があれば議論と呼んで良い。単発の言いっぱなしの意見は、それ単体では議論とは言いがたいが、あらゆる意見は何らかの議論のピースとして組み込まれる可能性があるので、どんな意見にも潜在的な価値がある。そうならなければ、ただ忘れられます。
自分の主張を相手に認めさせたいという欲求が生じることも多いが、相手が少しでもメリットを感じてくれない限り、「知」という目的にはかなわないので、適切ではありません。
人格否定は基本的に無益だが、知識に影響しない分、虚偽・偏向よりはマシである。無視するか別れるかすればよい。あるいは、「A氏がB氏に対して人格否定をした」という情報自体が、なにかの議論材料として価値を持つことすらある。
Lv.2 観点の「議論」
目的自体は Lv.1 と同じだが、「限られた場所・時間のなかで」という制約が付きます。
よって、制約の範囲内で何らかの有益な結論をまとめることが求められる。それが達成できない対話は、議論として価値が低いか、そもそも議論ではない。
議論目的に対するコスパを落とす行為は問題視されます。論点を一つに定め、横道にそれないよう注意する必要がある。多人数の場合、議長役のような調停者が必要とされる。
人格否定は、生産性を大きく落とすので有害です。
Lv.3 観点の「議論」
Lv.3 で議論と言ったら、基本的には折衝、つまり利害の衝突を決着させるための話し合いのことだ。
フェアネスの観点から、建前上は win-win を目指す。うまくいけばそれが達成されることもある。
誰も win-win な提案をできないか、合意に至らなければ、対立構造が明確となり、勝ち負けの問題になるでしょう。それぞれの主張の妥当性に応じた采配が行われることを目指し、双方、自分の主張の妥当性について説明責任を負います。敵側のそれについて説明する義理はない。
あらゆる発言は、まずは「どちらに有利に働くか」という観点で評価されるでしょう。
悪質と見なされる発言は、フェアネスの観点からも自分の利害の観点からも良くないので、排除に努めるでしょう。
「批判」「反論」などのニュアンスの違い
「知」にしか興味が無いという Lv.1 の世界のほうが、どちらかといえば現実離れしているので、そこで使われる用語は一般的な意味とは違うものになりがちだ(もちろん文脈次第では普通に使われる。貴方がこれらに馴染みがないとしたら、ただそういう文脈に触れる機会がなかったのだろう)。
なので主に Lv.1 での話をしましょう。
Lv.1 観点の批判/反論
Lv.1 で「批判」と言ったら、プログラムのテストやデバッグみたいなもので、基本的には何かを改善する行為です。「この理論はダメだ」みたいな指摘もそうで、本当にダメなら捨てたほうがお互いのためだし、合意できないようなら批判者の指摘を材料に加えて議論を続行するだけなので、いずれにしろ一歩前進である。文脈によっては「検証しましたが何も間違ってませんでした」なども批判と呼べる(けど、まあ普通はネガティブチェックの意味が強いかな)。
Lv.1 で「反論」と言ったら、まあ意味は言葉通りなんだけど、最終目的は相手をブッ倒すことではない。これも「批判」と同じで、共通目的に向けて進む行為です。自分一人で「自説への想定反論を考えてさらに再反論を考える」などといったこともよくするし(それを繰り返すと知識の質・量ともに改善するので)、その作業の一部を誰かが手伝ってくれるなら手間も省けて死角チェックもできて一石二鳥というわけだ。
ついでに、Lv.1 で「擁護」と言ったら、ある説の妥当性や根拠を説明する行為だ。これも「批判」「反論」と同じく、新たな知識を増やすので、共通目的にかなう行為です。もちろん、擁護する対象はあくまでなんらかの知識であって、人間ではない、よって「誰が言ったか」は直接関係ない。
Lv.2 観点の批判/反論
Lv.2 だと、ヘタクソな批判や反論をされると邪魔なので怒ることもあるかもね。
何に反論して、何を擁護するかは、Lv.1 ではある程度は節操なくやれば良かったが(場合による)、Lv.2 ではさらに取捨選択が要るでしょう。
Lv.3 観点の批判/反論
Lv.3 に近づくほど、だいたい一般社会で使われている通りの意味が混ざってくると思って良いでしょう。
「誤謬」「詭弁」のニュアンスの違い
これらの言葉の意味を知っている人も知らない人も、とりあえずは Wikipedia あたりでよいので目を通しておくといい。
大雑把には、誤謬とは論理展開の間違いのこと、詭弁とは説得目的での意図的な誤謬のことだ。
付随するニュアンスについては、これまた、Lv.1~3 で変わってくる。
Lv.1 観点の誤謬/詭弁
人間の素朴な考えは誤謬だらけである7という前提があるので、誤謬をめざとく発見はするが、めくじらを立てて責めることはない。
発見次第、協力して修正すれば良いのです。相手の誤謬を見つける行為は「批判」と呼んでよいでしょう。そして、その批判にも誤謬が入っていることは珍しくないので、相互に批判を繰り返すことになる。
詭弁は共通目的に逆行するので、理念的には完全にアウト。とはいえ、実際上は詭弁が問題になることは少ない。
一般的には、「意図」を含む内心の話は本人の言を信じるしかなく、「どうせ意図的だろう」などと指摘しようにも普通は根拠が無い。 よって、意図的に見えたとしても、意図しない誤謬であったという体で議論を進める(もちろん、得るものが無いと思ったら議論をやめる)。
さらに言うと、「あなたの意見は詭弁です」という主張には議論を止める効果しか無いが、「あなたの意見にはこれこれの誤謬があります」なら議論が前進するので、議論を続ける意思がある限り、詭弁か否かは重要ではない。
悪意の存在証明を演繹的にできるケースもないでもないだろうけど、そうなったらもはや終了である。
Lv.2 観点の誤謬/詭弁
誤謬一つ一つに対応コストが発生するので、誤謬が目立つと怒られるでしょうね。
「間違っていたら直せば良い」と開き直ったり、姿勢は真摯であってもあまりに誤謬が多ければ、誤謬を防ぐ意思や能力が無いと見なされ、問題視されるかもしれない。教育活動ではまた基準が変わってくるものの、やはりコスト面での現実的な理由から、入試などの選別が行われる。
共通目的が Lv.1 と同じなので、詭弁についての考え方は Lv.1 と似ています。ただし詭弁のほうが悪質なのは確かなので、上記と同じ理由から、「詭弁っぽいな」と思ったら糾弾するかもしれない。「貴方の発言は詭弁です」と言った時点ですでに議論を一時中断しているので、これはもう決裂寸前である。
Lv.1 では悪質な相手はただ無視するという選択肢もあったけれど、Lv.2 では「場」が限られているので、運営維持のため、そのような人を非難してその場から退場させる(せめて黙っていてもらう)という動きが出てくる。
Lv.3 観点の誤謬/詭弁
Lv.1 とは逆の意味で、誤謬が意図的かどうかはあまり重要にならない。
意図があろうとなかろうと、たいていの誤謬は、味方に有利に、敵に不利に働くからです。よって、表面的なやりとりのなかでは、そもそも「誤謬」という言葉や概念があまり使われず、「詭弁」が主な問題となる。「お前それ、詭弁だろう」「そんなことはない!」といった応酬になる。
相手の詭弁を見破ることができれば、相手の説得力を下げることができる。一方で自身の誤謬は、相手に見破られたときに初めて問題となる。そのため、自身の誤謬には甘い人もいるし、防御力を上げるために、自身の誤謬の点検を重視する人もいるでしょう。
前記事へのブックマークコメントの解釈
だいたいすべての意見に筋が通ると思うんだけど、短い文章から推測するしかないので、結構な確率で間違っていると思います。その場合は申し訳ありません。
あと、あくまで文字から拾えることだけ問題にしていて、発言者が普段どう思っているかという問題ではありません(ので「コイツはこういうヤツだ」みたいな見方は不適切)。
こんな長い記事読めんだろうから、返答とかは(嬉しいけど)要求しないよ。
想定問答
- 「違う、こうだ」→ 直します
- 「消せ」→ 消す
- 「根本的に違う」→ ホホウ
- 「当たり前だ」→ よかったな(怒)
人気コメント
id:kamakiri3 ”多様な論点”という言葉を持ち出せば文字通り何でも言えてしまう。他人が大変なコストをかけて検証を行っても”多様な論点”から反対し更なる検証は当然のように他人任せ。デマに対処することの困難を示している。
雑な解釈: 主に Lv.2 の観点で、コストの不均衡、もっと言えば「論敵にアンフェアなコスト負担を強いて自説(デマなど)を通す」ことを問題にしている。さらに Lv.3 の観点で、そのようなデマの社会的悪影響を懸念している。「”多様な論点”から反対し」とあるが「反対」は本質的な問題でなく、いたずらに論点を増やすことによる先述の不正と不利益が問題。
id:sds-page 「感覚的に正しいけど科学的に間違ってる事」に対して人類はどう向き合うべきか。「感覚的に正しい」からろくな議論も検証もせずに法規制に盛り込まれて来た。警戒する方も過剰反応になりがち
雑な解釈: Lv.3 の観点で、十分な議論がなされないまま主張が通り、それによって不当な損害が発生してきたという過去の事実を踏まえると、防衛反応として不完全な議論を警戒する動きが出るのは仕方ない、という指摘。また直接そうと書いてないけど、科学を強調した元記事に対して、wuzuki氏は論点が違う上に感覚的な意見を出したため、そのような防衛反応に引っかかるのも自然なことである、と読めるかな。
雑な感想: 私はつい Lv.1 で「過剰反応ではなく、ダメなヤツを正確に排除したい。疑わしきは罰せず」と考えてしまうけど、難しいよな~というのは分かるつもり。
id:whkr ある論点で証拠を出されたら、新たな未検証の話題を次々に持ち出して議論を永遠に発散させる。そのやり口は歴史修正主義者の話法なんだけど、今までそれを批判してた人達が同じことをやってるのが非常に残念です。
雑な解釈: id:kamakiri3 氏とだいたい同じ。元記事の筆者・読者が意図していない発散行為は攻撃に他ならず、手段として不公正なので、それに抗議している。
雑な感想: このブコメというより元記事へのwhkr氏のブコメだけど、前記事の id:greenT 氏の記事コメントを見て「そうだったのか!」と思うことが多々あり、申し訳ないことに本当に理解に時間がかかってしまった(未だに理解できてないかもしれない)。あと他のブコメに引きずられてしまったけどwhkr氏自身は「反論」「反対」といった言葉を一度も使っていませんね。分かる人は「最初からそう書いてるジャン」になるんだろうけど、難しィ~。
id:mutinomuti ソーシャルブックマークで議論しようって態度が間違っているので、議論したいなら議論できる形式でやるべきと思っている(´・_・`)
雑な解釈: Lv.2 の観点から、ブクマUIのリソース制限を問題にしている。直接書いてないので類推だけど、ブクマで行われていることは「議論」ではない以上、Lv.2 で言うところの「知的誠実さ」をブコメに求めることはない、という立場かな。
雑な感想: Lv.2 で言うところの「議論」については私もブクマはダメだと思いますねえ。
id:ono_matope はてなっぽい。あのエントリーはポルノ規制議論の前提となる性犯罪誘発論への反論を論拠付きで示したものなので、規制派は「そんなことより認知の歪みがさー」じゃなくて更なる反証を提示するのが誠実さでは
雑な解釈: 規制は是か非かという、利害のある話題の議論なので、Lv.3 の観点から、元記事と対等な態度・アプローチでのフェアな返答を求めている。また、「規制反対」を主旨とした元記事に対してアンフェアな返答をする人は、どう見ても「規制反対」の味方ではないので、「規制派」と見なしている。
雑な感想: Lv.1 では「まず規制派じゃなくね」とかが気になっちゃうけど(「お前の主張は『規制』に他ならん」みたいな議論は当然あり得る)、それもまた一面的な見方ではあるんだなあ。
id:daydollarbotch 論拠を示さない意見には、論拠があるが示さないものと、論拠がなく示せないものに分かれる。前者なら論拠を示す方が望ましいし、後者ならほぼ無意味。いずれにせよその意見を過剰にありがたがるのは知的とはいえない
(メタブ) id:daydollarbotch ただ、ブコメもスターも気軽に行うことも可能なので、どこまで個々が考えてその行為をやってるか判別するのは難しい。
雑な解釈: 「論拠を示さない意見」の有益性の低さを問題にしている。Lv.1 では何が有益かは各自勝手に決めればよいので、Lv.2 に近い認識と言えるでしょうか。
id:tekitou-manga 総和としてポルノが性犯罪を減らす効果があるという事と、ポルノに起因する性犯罪がある事は矛盾しない。功利主義的にポルノ肯定するのは可能 / ブコメなんて所詮床屋政談、何言っても良い派。各個が内容で軽重つけろ
(メタブ) id:tekitou-manga 1Fと同じく本題ではないが、自分がポルノ肯定するのは功利主義的にではなく、自由の尊重によるもので、その弊害について議論を拒否するものではないという事だけは言及しておく。逆に見える様に書いてしまったので
雑な解釈: 「床屋政談」「議論を拒否するものでは…」などの点から、(少なくともはてブという場については)Lv.1 に近い認識でしょうか。他の内容も興味深いが割愛。
id:serio 「賢者タイム」が性衝動を沈静する凄まじい効果を男は肌感覚で知っているので、ポルノが性犯罪を誘発するという主張はバカバカしいと男は分かる。女性は賢者タイムを経験できないので仕方ない面はあるが。
雑な解釈: 「この記事内容はともかく、元記事の話題(もしくはそのブコメ、おそらくwuzuki氏の)についてはこう思う」という感想ブコメ。たぶん知的誠実さ云々の話はしていないが、無理矢理あてはめるとしたら、論点の固定にこだわらない Lv.1 に近いでしょうか。
雑な感想: これは私から見ると、私の記事に対して「関係ないブコメ」なんだけど、それってつまり手嶋氏の記事に対するwuzuki氏のブコメと同じ関係性なのかあ、みたいなことをぼんやり考えた。ところで「関係ないブコメ」と書くと、まるで他のブコメがそうではないかのようだ。厳密に考えると、たとえば「反論を」「規制派が」といったブコメも、私が自認する記事内容には関係が薄い(そのような発言や人物をメインの話題にしてないので)。しかしこれは明らかに意地悪な見方で、実際には、前提の食い違いを示唆してくれるので私には有益でした。えー、この話に特に結論は無い。
id:mujisoshina ある論点について既に正しい結論が出ているとする立場からはそれを認めずに違う意見を言うことが不誠実に見えるが、まだ結論が出ていないとする立場からは議論を終わらせようとする姿勢こそが不誠実に見える。
雑な解釈: 立場によって見えてるものが違うというメタ的な指摘で、この記事の問題意識に近いものだ。この記事の「発散/収束」の項で、Lv.2 では「この議論はいまどのフェーズなのか」の合意が重要になると書いたけど、その合意ができていないとこういうことになる、という言い換えができるかな。
id:miki3k 元記事に対するブックマークなので、基本的には元記事の内容についての言及に止めるのが良いんじゃないか。議論はブックマークではできないだろう
雑な解釈: 「議論はブックマークではできないだろう」で、Lv.2 観点でブクマのリソース制約を問題にしている。問題視した後どう動くかはさらに分岐があり、ブクマでは何でもアリだと考える人と、制約の範囲内で議論めいたものを(たとえ議論と呼べないとしても)運用しようという人に分かれるはずで、そのうち後者に近い意見だとみなせる。
その他のコメント
順不同かつ適当なピックアップです。
id:wuzuki 私の関心はあくまでも防犯と加害者心理。加害者の調査は定量調査は難しそうだよね。性に関する調査の難しさは『ヤバい経済学』でも出てきたな。/ ちなみにこういう調査もある。https://www.nishinippon.co.jp/item/n/207527.amp
雑な解釈: 関心の違いに言及したうえで、自分の関心の話をしている。Lv.1 ならこういう動きを自然にする。
雑な感想: 何気なく書かれたのかもしれませんが「私の関心は…」は私には示唆的だった。表現の自由に関心がある人は「表現規制は是か非か」という論点に向かうわけだけど、性犯罪に関心のある人にとって表現規制は局所的な手段の一候補に過ぎなくて、性犯罪に繋がるあらゆる要素を検討したいんですよね、まあ結果的に表現の話も含むんだけど。議論を統合するためにはどこかで論理ツリーをマージする必要があるがそこで摩擦が起こるわけだ。
id:nemuiumen 知的に誠実だと往々にして政治的には敗北するけど、知的に誠実なフリはしないとこれまた敗北してしまう。知的に誠実であれば政治的な敗北してもいいわけではないし、自意識としても知的に誠実だと思いたい。複雑。
雑な解釈: 特定の観点からの意見ではなく「いろんなレイヤーがあって複雑」というメタ的なことを言っている。
雑な感想: この記事ではそのレイヤーの違いの説明を試みたけど、その先どうする? という話をしていない。その先もいろいろ課題があるよね~という話なんだと思います。私も複雑。
id:tomoya_edw 「人それぞれとか言い出したら議論は終わり。成り立たない」と同じようなブコメの傾きだったので自分はコメつけませんでした。規制みたいな強い行動につながりかねんことには根拠出せ、というとこだけは賛同★つけた
雑な解釈: ちょっと前半を理解しきれていない。後半は、どういう意図があろうが社会的な結果を考えてくれという、Lv.3 の観点からすれば自然な意見。
id:shun_libra 個人的な感覚ではあるけど、知的誠実さとは議論を論破・論難の場にしないことじゃないかと思う。一部のフェミニストが抗議はしつつ議論に一切乗らないのも、論破ゲームの土俵には乗りたくないからだろうし。
雑な解釈: 論破・論難を問題視していて、これは本記事でも言及した「方向性としては Lv.1 側に近づけていくべき」という価値観に合致する。
雑な感想: 「一部のフェミニストが…」は私も気になってるところで、すごく個人的な希望としては、議論好きなので議論を忌避する人が増えてほしくないんだけど、バチバチに争う議論ばかりしてるとそうなっちゃうよな~という悲しみがあります。
id:frothmouth 「興味深い意見ですが、このディスカッションの論点とはズレていますね」という感じの議長役がいれば、SNSでも議論が可能なのではないだろうか/議題を深めたいのか、広い意見を集めたいのかでも変わってくる
雑な解釈: Lv.2 の観点で、SNS一般について、議長役がいないことで議論が散逸しがちなことを問題にしている。「議題を深めたいのか、広い意見を集めたいのか」は(同じではないが)発散/収束の話とも連関するかもしれない。
id:lanlanrooooo 政治的な話にはなっちゃってるよねえ。個人としては萌え絵の広告には批判的なんだけど、件の奴は読み応えあって面白かった。それに乗っかる人らのムーブがあまりにもひどいな、という感じだった。
雑な解釈: Lv.1~2 的な議論が、Lv.3 的な関わり方によってうまく機能しなくなってしまうことを問題にしている。
雑な感想: Lv.1 から見るとなんでやねんと思う光景は正直すごくある……。そんな自分を相対化したいというのがこの記事だけど、いや~難しいですね。
id:gesyo その“別観点”とやらにデータ的根拠が皆無なのと、仮にそれが正しいとしても大局に影響しないので、ここで持ち出すこと自体が詭弁であり不誠実と言わざるをえない。ほとんど陰謀論ですよ、そのやり方。
雑な解釈: 主に Lv.2 の観点で、無益な意見を出すと邪魔なので有害であるという点を問題視している。また、そのような行動が陰謀論などに共通することを指摘。
雑な感想: 確かに陰謀論、それにwhkr氏の言及された歴史修正もそうだけど(あとは疑似科学とか)、いわゆるトンデモ系にどう対処するか、いろいろうかつに擁護するとトンデモも許すことにならないか、などは私も問題だと思いますね。ちょっといまは答えがないんだが。
id:plagmaticjam 元記事はフェミニストはなぜ性産業や表現の自由に反対するのか、という出発点だったので、認知の歪みゆえと言明するのは論点がズレてないのでは。記事本体(性犯罪の統計)とは関係ないコメントには見えたものの
雑な解釈: Lv云々以前に、論点がずれている、とは? というあたりへの意見。
雑な感想: この記事では Lv.2 において、論点を設定する権限は誰にあるのかという点をあまり書かなかったけど、その合意次第でずれてるともずれてないとも言えますかね。おっしゃるように、ずれてないという解釈は普通にできるなあと思っています。仮に論点が妥当だとしても「前提の修正を迫るような意見なら相応のコストをだな」という反論はありえる(ある)わけですが。(ぼやいてしまうと、かように、この記事自体にいろんな論点があって、私はいたく混乱したものです。)
id:hirorpt1 「反論できないからって言うに事欠いて」、不誠実だとみなす肝はここでは。wuzukiは規制派として闘争のために論拠なしに話ずらしたという前提。これ自体は思い込みだろうがそう仮定するなら誠実でないことになりそうな
(メタブ) id:hirorpt1 追記されてた。「批判も反論もしてなくない?」ってのは同意で、それに尽きる話じゃないの?と思った。ただの素朴な思いつきでもスター付くのははてブの良いところでもあり、文脈の後付という点で治安の悪さでもある
雑な解釈: どういった考え方で非難に繋がっているのか、についてのメタ的な言及。
雑な感想: 私もこの考えだった。のですが、批判や反論じゃなくても(論点が違うだけでも)NG判定になることがある、というあたりの理屈が少しだけ分かった気がする、というのがこの記事の個人的な収穫の一つだったかな。「反論できないからって」って言われると「反論」に引きずられちゃうんだけど。
id:otoan52 ブコメ、デマの対処や横道の議論が大きなコストなのは間違いないんだけど、そのために意見表明に対する制約をつけるのは、それはそれで誠実じゃないと思う。そのコストはコミュニティとして分担するのが良いのでは
雑な解釈: Lv.2 の観点でコストに言及するが、それを誰が負担するか? という話。
雑な感想: 意見が分かれそうなところではありますが、新たな論点として興味深いですね。「政治的」という言葉は主に Lv.3 の世界を思わせるけれど、コスト負担の話、これはこれで局所的な政治なんだなあ。
id:behuckleberry02 まだ元記事もブコメも読んでないけど概ね賛成。別視点から可能性の光を当てるのは大事。
雑な解釈: (元記事・ブコメ次第で変わる可能性はあるが)「別視点から」はどちらかと言えば Lv.1 に近い考え方。
id:niwaradi 良い考察。自分語りすると私はせっかく規制派に反科学の過激宗教イメージが浸透してきてるのに自由派も最近攻撃性高いイメージになってきてマズいじゃんと思って政治的意図で擁護しました。
雑な解釈: Lv.3 の観点だが、そのなかでもイメージ戦略を重視する立場。
雑な感想: 私も、政治にうといので的外れかもですが「勝ちたいならイメージ良くしたほうがよくない?」という感想がありますね。攻撃性にもちゃんと理由がある、という擁護はできるんだけど、それするとラディカルフェミニズムも一緒に擁護することにならないかしら、とか。誤射ならぬ誤ヒール(ただの印象論です)
id:hesopenn 元のまとめは自分の意に沿うUnpublished Manuscriptをとりあげて、その後にトップジャーナルに出た査読論文の結果を意図的に省いています。これ以上の知的不誠実はないでしょうね。ブコメがどうこうというレベルじゃない。
雑な解釈: 恣意的な取捨選択を大きな問題と見なし、ブコメの件は問題視しない。これは Lv.1 の姿勢そのものです。ただし知的不誠実を強く非難する態度は、学問という営みを健全に運営したいという動機から来ていて、ここは Lv.2 の観点とも言えるかもしれない。同じ Lv.2 でも、どこでどのリソースが足りないかの認識は異なるという例。
ブコメの件についての補足として、前記事の記事コメントからも引用させていただくと:
少なくともここでwuzukiさんが述べられていることに明白な根拠がないことは明らかなので、それはある意味で誠実だと言えます。つまり勝手に論文を捏造したり、恣意的に選んできておらず、文章から単にwuzukiさんの意見であることがはっきり分かるからですね。このようなコメントはセミナーなどでたくさん見かけますが、それで怒るような学者はいませんね。実際にWuzukiさんの発言はConclusionのLimitationやFurther researchなどで書かれてもおかしくはない話だと思います。
なお記事も書かれたそうで、もしまだ未読でご興味があれば。
脚注
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ホホウ、と思った、なにしろ私にはアンフェアという発想がまったく無かったからです。より一般的に「悪」と言われたら違和感は無いけれど、「悪」だけでは具体的に何が悪いのか分からないものね。「何がアンフェアなのか」を考えることには意味がありそうだ。↩
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Wikipedia記事からの孫引きで申し訳ないけど、次のような定義の例も見つけた。「公平判断は、当該社会における社会的資源や生活機会を所与としたときに、評価者が正しいと考える配分原理をもとに生じるであろう仮想的配分を基準にして、現実の配分状況(の認知)がどれだけ逸脱しているか、という評価である」(海野 道郎・斎藤 友里子, 1990,「公平感と満足度―社会評価の構造と社会的地位」原純輔編『現代日本の階層構造 2 階層意識の動態』東京大学出版会 p98.)↩
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フェアネスの発想がないということは、要するに「ズルい!」みたいな文句が無い。もちろん、より広い倫理観・善悪感はあるでしょう。↩
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「万人のための」は、なんとなく数学とかをイメージしてみてほしい。「数学的に何が正しいか」は、個々人の事情にまったく関係ない。いくつかの公理を前提とすることに同意しさえすれば、誰でもその知識の正しさを確かめたり共有したりできる。↩
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直接関係ないけど、魚豊『チ。-地球の運動について-』という漫画があるよね。実際の科学史と比較するとどういう感想になるんだろう? というあたりは不勉強で分かってないですが、面白いよ。↩
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おそらく私も含むけど、自称「論理的」な人の発言も普通に誤謬だらけですよ。↩