已己巳己ブレイクダウン

時事ネタなどを起点とした思考の記録です。

倫理や正義を押しつけるのは悪いことなのか ~ ワートリの倫理とヴィーガンの正義

[概要]ある人が倫理的な主張をしたとき、それに対して「押しつけるな」という反応が返されることも多い。このとき、両者のメタ倫理観に違いがあるのではないかと考えてみることで理解が進む可能性がある。

何について考えるか

本稿のタイトルに対する答えは簡単で、「押しつける」という言葉自体に悪い意味が含まれている以上、何かを押しつけるのは常に悪いことです。なので次のように問い直そう:

『正義を押しつけるな』という反応をする人が存在する。
そして、そのような反応がどうもピンとこないという人が存在する。
彼らの間には何らかの前提の食い違いがあるかもしれない。
その可能性として何が考えられるだろうか?

「前提の食い違い」というのが単なる事実認識の違いだったらまだ楽なんだけど1、大抵は同じ事実を見ていても何が良くて何が悪いかという価値判断がぶれますよね。大げさに言うと思想の違いがあり、ここではその辺に興味がある。

用語整理: 道徳? 倫理? 正義?

本稿ではこれ全部を同じ意味で使います。

と言いたいのだがこれは直観的ではないだろうから、経緯を書く。たいていの人は、これらの単語に何らかの違いを見いだし、使い分けているだろう。私もそうです。

例えば次のような記事があった:

shin-fedor.hatenablog.com

この記事の後半あたりでは "正しさ(常識、道徳)の流動性" などの話をしていて、次の私のブコメの後半もそれに対応しています。

b:id:koo-sokzeshky 考えさせられる。「ポリコレ」は元々皮肉なので、今後も雑な用法しかないという考えですね私は。あと「道徳」の問題は記載の通りで、それをパージした言葉が「倫理」「公正」だという理解なんだけどこれは長くなるな

「長くなるな」というのはつまり何か記事を書きますというつもりで、時間差になっちゃったけどそれで本稿に至るというわけである2

で、このブコメの時点での私はどうも「道徳」と「倫理」を使い分けようとしているのだけど、今は、もう一歩引いて見たほうが良いだろうという考えになっています。まず、もともと私が持っていた素朴なイメージは次のような感じ(倫理学については素人です)。

  • 正義: 特に文脈を指定しない場合、なんかすごいアメリカンマッチョ(もしくはキリスト教チックな僧兵)が出てきて強制的な解決を図るイメージ。
    • しかし特定の文脈、たとえば「社会正義」の話をしているときは一気に温度が下がって、後述の「倫理」とほぼ同じ。
  • 道徳: 善悪の話だが、宗教的・共同体的なニュアンスが強い。疑いを差し挟むことはそれ自体が不道徳ではばかられる感じ。たぶん東洋由来。
  • 倫理: 善悪の話だが、理性的な議論の対象というニュアンスが強い。確かに善悪を話題にするのだが、その話をしている最中は常識的な善悪からは距離を置いて、俯瞰的・懐疑的・批判的に基準を見直す感じ3。たぶん西洋由来。

しかしその後ググった感じ、どうも色んな説明がバラバラに見えるし、逆にまったく同じ意味で使うことも多いようだ。さらにややこしいことには英語にも ethics と moral という単語があり、これは語源がギリシャ語とラテン語で違うだけで意味は同じですとか、いやちょっと違いますとか色々である(倫理学者も区別してないことが多いという説明もあった)。たまたま読んだ倫理学の本でも「ここでは『倫理』と『道徳』を区別しません」と宣言していたので、私もそれに倣ってしまおうと思う。

さらには、語感についての直観的な感覚がまったく当てにならないという事情もある。例えば「正義」は使った瞬間すごい反発を受けるので、私はもうこの言葉はやめた方がいいんじゃないかと思ってるけど、「正義」の人(の少なくとも一部)は、私が「倫理」と言うときと同じ温度感で「正義」の話をしていることだろう。いっぽう、私は「倫理」に押しつけがましさを感じる人にあまり共感しないのだけど、そういう人は、他の人が「正義」に感じるのと似たような強さを「倫理」からも感じていることだろう。

ちなみに、「倫理とは基準そのもののことであり、正義とはその基準に照らして正しいと判断されたもののことである」などの使い分けもありえて、話題によってはこの区別は重要だろうけど、本稿の範囲ではそのへんは曖昧でも支障は無いと判断しました。

ということで、ここでは原則として「倫理」、文脈(引用元とか)次第では「正義」「道徳」と言う。どれを使ったところで「押しつけるな」という批判は免れないのだから同じことだ。

ワールドトリガーと倫理

倫理とは議論の余地のないものであるか

秋頃に次のような記事があった(消されてしまったので魚拓を貼る)。以下 ワートリ増田 と呼ぼう。

megalodon.jp

上記(跡地)のブコメ: https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221008200247

これに対して下記のような応答が提出された。以下 ワートリレスポンス増田 と呼ぼう。

anond.hatelabo.jp

個人的にワートリ増田については特に強い思いはなくて、別にああいう意見があってもいいし反論しようと思えばそれもできるでしょうみたいな感じ4。それよりも興味深いのは、「倫理」という言葉にワートリレスポンス増田が強く反応し、それを "自明で万民が従うべき正義"、"議論の余地なき倫理" と受け取っている点である。

これは決して特殊な捉え方ではないらしい。類似のブコメ多数、たとえば人気コメントの一つとして:

b:id:flont 最初に「お気持ち」って宣言してるのに、その後一生懸命正当化して最後には倫理とか言い出してしまう自身の倫理感についてもう少し内省してはどうか

(ワートリ増田のブコメより)

あるいは、ブコメ空間上のやりとり:

b:id:hesopenn ちょっとでも「○○してほしい」という声をあげると「カスが」とか言われるの、どう考えても狂ってる世界だと思う。消費者が生産者に向けて何か要求することなんて日常茶飯事でしょ。どうなってるの…。

b:id:hobo_king id:hesopenn 声をあげたからじゃ無いと思う。本来「私は不愉快だ」で済む個人的要望に理屈づけして、どんなに予防線を張っても結局は「私の要望は正しいから受け入れられるべき」を装うから不快に思われるのだと思う。

(ワートリレスポンス増田のブコメより)

ちなみにワートリレスポンス増田に対する当時の私の反応は下記。

b:id:koo-sokzeshky 反論はいいけど、ここまで罵るかという衝撃。”議論の余地なき倫理” は完全に倫理を誤解してて(余地ありまくりですよ)、たぶん本件に限らないすれ違いポイントなのかも。後で何か書く

何か書くとか言いつつ二ヶ月経ってしまった。ところで私のブコメで「誤解」と言ってるあたり、私の理解の方が正しいゾと言ってるようなもので、これは言い過ぎではあるかもしれない。まあ実際そう思ってるのは事実だけど、今はこれは保留していい。いずれにせよ、「ワートリ増田が『倫理』だと思っているもの」をワートリレスポンス増田は理解していないか、もしくは理解しつつも同意していない。

倫理は「お気持ち」とは違うのか

ワートリレスポンス増田へのさらなる応答の一つが下記である。お気持ち増田 と呼ぼう。

anond.hatelabo.jp

これに対して、まずは、上皇陛下の「お気持ち」と、ワートリ増田などを批判する文脈での「お気持ち」は別物だろうという反論があるでしょう。
前者をお気持ちα、後者をお気持ちβと呼ぼう。

お気持ち増田も多分、用法が変化していること自体は百も承知だろう。しかし、お気持ちβが批判されるときに言及される性質(必ずしも十分に合意を得られていない個人的な価値判断をもとにして、いち個人が自由に操作すべきでない対象、すなわち「社会」に対して何らかの要求をすること)が、お気持ちαにもそっくり当てはまるはずで、だとしたらお気持ちβへの批判には普遍性が無いではないか……と、お気持ち増田はそのように読み替えることができるんではないかと思う。

もちろんそれで決着とする必要はないのです。たとえば:

  • お気持ちβにはこれこれの性質があり、それはお気持ちαと決定的に異なる、我々が「お気持ち」と言うときにはそれを含意しているのだ……といった反論ができる。その違いがなんなのかが明らかになれば一歩前進だ。
  • 上皇陛下のお気持ちはOKだが一般人のお気持ちはNG、というアプローチもある(「お気持ち」の皮肉としての用法を考えるとこっちが近い?)。これは「誰が言ったかで判断すべきではない」という一般論に背くので合意しにくいかもしれないけど、上皇陛下にはこれこれの性質が固有であり、その性質の有無は対応を変えるに十分なものである……などといった説明をしていくと、けっきょく同じ話に収束するのかもしれない。

倫理とは主観的なものであるか

お気持ち増田への私の反応は下記(珍しくファーストブクマだった)。

b:id:koo-sokzeshky 個人的にはこの増田に近い考えで、それは正義や倫理が常に相対的なものだという出発点があるからなんだけど、これに同意しない人はどの集団にも存在するという事実が状況を複雑化させており、一筋縄ではいかないなと

ここで「相対的」という言葉が正確かは不明、「主観的」「個人的」と読み替えてもいい(文脈次第では一緒にできないかもしれないが)。ある人がその人の考える倫理を開陳したとして、それを(ワートリレスポンス増田のように)絶対的なものと捉える必要はない、という話である。

お気持ち増田は「お気持ちと倫理は切り離せない」と言っているわけだけど、これに同意するためには、まず前提として「倫理とは(お気持ちと同様)主観的なものだ」ということに同意している必要があるのです。

私のブコメの後半はちょっと言葉足らずで、あまりネガティブに捉える必要はないです。言いたかったのは(こんなブコメで伝わるはずもないが)、「倫理を相対的だと思っている人」と「倫理を絶対的だと思っている人」がそれぞれ徒党を組んでいるわけではなく、分類がもっと複雑なんではないかということだ。という話を次でする。

倫理を押しつけるな派と別にいいだろ派はそれぞれ一枚岩なのか

このへんについてさらなる考えを促してくれたのが次のブコメです。

b:id:zenkamono 上位ブコメ、"正義も倫理も相対的"ならば、その相対的なものを根拠に「社会的にダメだ」と他人の創作物を変えようと要求するのは筋悪すぎる。自分のお気持ち表明に留めるならあれだけ叩かれない。他人に要求するな

私が踏まえた「正義も倫理も相対的」という前提から、私とは違う結論が出てくるのである。これは面白い。もし「絶対」派5の側にも似たような構造があると仮定すると、次の4パターンが存在することになる。

  • A) 倫理とは絶対的・客観的なものである
    • A-1) ゆえに、倫理判断への同意を誰もが他人に要求してよい
    • A-2) ゆえに、倫理判断への同意をいち個人が絶対者に成り代わって要求してはならない
  • B) 倫理とは相対的・主観的なものである
    • B-1) ゆえに、特定の倫理判断への同意を互いに要求して対等に議論すればよい
    • B-2) ゆえに、特定の倫理判断への同意を他人に要求してはならない

A-2 および B-2 の人は、A-1 および B-1 の人に対して「押しつけるな」と文句を言うはずだが、内実としてはAとBで全然違うことを考えているわけである。

ちなみに、一般的に B-2 のような態度を相対主義という。いっぽう B-1 はというと、次のようにもう少し複雑です。なんとなく、科学者と「真理」の関係に近いんじゃないかなと思っています。

  • すべては相対的だという前提に立つ
    • ※ 私のブコメで「出発点」と書いたのもこれのこと
  • できるだけ合意を広げようとする方向性がある
    • つまり究極的には、絶対的な何かを目指している、とも言える
  • 絶対的なものが本当に実現するとは思っておらず、それを望んでもいない
  • 絶対を目指す過程での漸進的な変化に大きな価値を認める

倫理とは相対的なものであるか

お気持ち増田への私のブコメに対する、もう一つの反応が下記(当時私がトップコメだったが今は抜かれている)。

b:id:kingate 正義も倫理も相対だなんて、頭おかしいんか、トップコメのオマエ。オマエにとっちゃ「生命」も相対価値しか持たねぇんだな。正義も倫理も「生命を守る」からしか発露しねぇよ。だから「社会的」こそ相対化すべきだぞ

たぶんワートリレスポンス増田(およびその同調者)は、自分の事情を絶対視して戦う人に批判的だよね。いっぽうkingate氏は(話題がなんであれ)「戦うな」と言われて同意しないだろうから、これはさらに別の意見ということになるかしら。というか、上記4パターンの勝手な分類がそもそも怪しくて、「要求してよい」とか「要求すべきでない」とかいった価値基準を普遍化すること自体に同意しない、という感じでしょうか。ここまでだけでも解釈に時間かかったし、未だに私が理解できてない可能性が高い。

"相対価値" という表現も大事なポイントかもしれません。この表現は、個々人の倫理判断の「正しさ」をスコア化して数直線上に並べているかのようなイメージを想起させる。えーなんかヤだなあ、でも相対化ってそういうことでしょ、いやでもなあ、モゴモゴ。

私としてはどちらかというと、「正しさ」の度合いが相対的だと強調することよりも、視点が違うのだみたいな話をイメージしていた。たとえば物理学で運動の記述をするとき。あるバイクがブロロロロ、ヒャッハー!と走っているとして、

  • M氏からすると、バイクが遠ざかっていくように見える。
  • N氏からすると、バイクが近づいてくるように見える。

このとき「相対」派の人は「絶対空間なるものは存在しないので、『遠ざかる』『近づく』のどちらが正しいかは決めようがない」と考える。そこから先どうするかはまた別で、「だから、話し合っても意味が無い」と考える人と、「M氏とN氏の両方が同意するような記述方法を探そう」と考える人がいて、それが B-2 と B-1 (上述)に対応するわけである。

倫理に権威はあるのか

A-2「倫理とは絶対的・客観的なものであるがゆえに、倫理判断への同意をいち個人が絶対者に成り代わって要求してはならない」に似た立場として、「倫理とは権威性を伴うものであり、その権威性を利用して自分の主張の説得力を上げようとしてはならない」といったものがありそうです。「倫理」に限らず「社会」とかも同様だろう。ちなみに絶対性と権威性は似た話ではあるけれど、細かい点では何かが違ってくるかもしれない。これらの観点でワートリ増田をどう評価すべきだろうか?

とりあえず「『社会』を後ろ盾にしやがってッ!」という反発は分からなくはないんだよね。しかしワートリ増田を読む限り次のような感じなので、絶対普遍派のカテゴリには当てはまらない気がする。

  • 自身の「お気持ち」性を強調している
  • 「社会」の倫理はいろんな人の声に応じてグネグネ変わっていくものだという認識を持っている
  • ワートリ作者が独自の倫理観を持つことを否定していない(批判している点の一つは "現在の価値観やジェンダー観を考慮した上で好みと天秤にかけ" ることを多分していないだろうという点である6

では、権威性を利用している、という批判は当てはまるか? どうなんだろう。まず一般論として、「社会」「倫理」がどうのこうの言う人には次のタイプがあると思う(正直、よく一緒にされることについては常々不満に思っている)。

  • 社会(というか「世間」)と倫理(というか「常識」)に権威性を認め、皆がそれにスムーズに従うことで結果的に個々人の生活も良くなるのだ、と思っている人(共同体主義タイプ)
  • 社会は個人の集まりに過ぎず、倫理は個々人の考えの集まりに過ぎず、なので権威も何もないが、個人主義に基づくならば社会の構成員の声を広く聞く必要があるので、結果的に社会や倫理を強く意識することになるという人(左派リベラルタイプ)

後者の人は、テメーは権威主義だと言われるとそんなはずあるかと答えるんだけど、社会や倫理という概念には「事実上の権威」が既に発生しているではないか、それに無自覚なまま社会だの倫理だのと言うんじゃない、という反論があってもおかしくない。

ちなみにワートリ増田がどっちなのかは微妙なところだが、私としても、社会の多数派が倫理を決めることに対しての警戒感が薄すぎではないかな~という感想はある。

一方で、このような意味で権威性があるのは社会や倫理に限らないでしょというのもある。私も気をつけたいんだけど、「科学」とか「法律」とか「論理」とかを持ち出すときにまったく同じ問題が発生してません? だから使うなと言われたら何も言えなくなっちゃうんだけど。

ヴィーガンと正義

別の事例に行こう。

正義を他人に要求するのは悪いことか

最近、次のまとめが盛り上がった。

togetter.com

このツイートの並びだと分かりにくいけど、

  1. @otapediatrician氏が "「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚か" と発言
  2. それに対して@Taroupho氏が反対意見を出した

というのがメインの流れです。

つまりヴィーガニズムの是非の話ではない。にもかかわらず「でもヴィーガンは……」という意見が多いことに対して、さらに次のような反応が出ている。ヴィーガン文章増田 と呼ぼう。

anond.hatelabo.jp

これには基本的に同意ではあるんだけど、"まず、第一に「規範」とか「規範的主張」と言うのは……" のあたりに対しては「そうか?」という感想。なおこういう指摘もある。私も正直よく分かってないんだけど大体これに同意、まあこの場合「正義」について別の考えを持っている人は反発しやすくなるだろうけど。

正義を要求することは当たり前なのか

「当たり前」の受け取り方にけっこう差があると思っている(誤読した方が悪いとかそういう話ではない)。

b:id:deep_one 「正義」の範囲が拡大しすぎ。「主張して当たり前」と言える範囲は極めて小さい。

まず「当たり前」には価値判断を含まない用法がある。例えば:

  • M氏「君ィ、このプログラムはなぜこんな動作をするのかね」
  • N氏「へえ、それはこれこれこういうアルゴリズムを実装しているからで」
  • M氏「なるほど、だとしたらこういう動作をして当たり前だな」

この後M氏は「ところでこんな動作じゃ困るから直してくれ」と続けてもいいわけだ。

しかし@Taroupho氏がこの意味で言っているのかどうかは確定しませんな。とりあえずヴィーガン思想の是非の話をしてないのは確かだけど、「倫理や正義とはこういうものだ」という主張を強めの語気で言っているわけで(そもそも言及先の@otapediatrician氏が強いこと言ってるので売り言葉に買い言葉)、それに同意しない限り「当たり前」ではないだろうという応答はできる。

あと、価値判断を含まない用法に則るとしたら、逆に次のブコメが成り立つことにもなるでしょう。

b:id:paulownia まー、日本人そもそも「正義の原理に基づいた規範的主張」ってものを信用してないから、「それを他人に向かって主張するのは当たり前」という態度に対して激しく反発するのもまた当たり前なんだよねえ

あと次のブコメも面白かった。

b:id:WildWideWeb 「プレイヤーであると同時に先生でもあり、審判でもある」立場って西洋人のスタンスそのものだけど、先に真似/改宗した人が残りの人達に対して疑似西洋人として振る舞う構造も不変だなと思う。

「あの人だけが審判だ」vs「審判などいない」vs「一億総審判社会だ」の衝突。ある思想が外から入ってきたことを強調するのは、ちょっぴり「純粋な日本」を想起させるのであまり賛成できないけど、ルーツを再確認するのは悪くない。この手の喧嘩について言及するとどうしてもDD論になるけれど、たまには一歩引いて眺めてみるのも良さそうです。

正義を要求することは暴力なのか

ヴィーガンの話題になると、しばしば次のような応答が見られる。

b:id:technocutzero 例えば日本で「イスラム教の正しい規範」を普通の日本人に押し付けてきたとしてそれが当たり前とはならんだろ じゃあこっちもお前の口に肉を捻じ込んでやると喧嘩になるだけだ 結局一緒じゃ 何も変わらん

b:id:nt46 肉食正義派がヴィーガンの口に無理矢理肉をつっこむことも認めるべきでは。肉食は正義。肉食は全てを解決する。ヒューマニズムこそ正義なのでヴィーガニズムを駆逐すべき。

b:id:sisya ヴィーガンを押しつけてくる人の口には、もれなく肉を押し込んで口を閉じさせると決めている。そちらが押しつけてくるなら、こちらも強硬策に出る。肉を食べたくないなら人に押しつけるな。

これはおそらく物理的な暴力を伴う過激派を念頭に置いているのだろうけど、それでは「合法な範囲で、言葉だけで押しつけてくる人」についても同様なんだろうか? 少なくとも@Taroupho氏は "倫理上の議論" の話をしているので後者に該当するだろう。そういう場合でも「口に肉を押し込む」という反応が(比喩だとしても)正当だとすると、このへんをはっきり区別する必要はないと考えていることになるだろう。

これの是非についてはまた別の話です。「議論」を好む人たちは、多くの場合「言葉の暴力」が存在すること自体は否定しないけど、原則として言葉のやりとりは物理的な手段に比べれば遙かに平和だと思っているので、どこからどこまでが「口に肉を押し込む」レベルの暴力性を持つのかを明らかにしたいと考えることだろう。一方で、本当に攻撃的な人も実際に存在するのだろうから、結局のところ、もっと具体的に場合分けしたり、暴力性のレベルを細分化したりしないとダメなんではという感想だ。

正義を押しつけと感じるのはなぜか

「過激ではない人たち」を念頭に置いたとしても、衝突の種はいろいろあるんではないかと思う。

たとえば Togetter への私のブコメが下記:

b:id:koo-sokzeshky 「正義」観には結構いろんな種類がある。分類軸の一つがpull型とpush型かなあ。pull型の人はpushされると「押し付けるなよ!」と怒ってしまう。そのラインはどこかとか、pull型は普段から貪欲にpullしてますかとか色々

プロトコルが違うとびっくりするねという話なんだけど、これはかなり雑な話なので要改善だった。いちおう補足をしようかとも思ったんだけど、全然まとまってないのに長々と書いてもな……(今更だが)と、思えてきたので、もういいや。なんだったんだ。

正義を要求することの是非と正義そのものの是非は別問題か

ちょっと最初のほうの話に戻るけど、本当に "ヴィーガニズムの是非の話ではない" のか? という点はいったん立ち止まってもよいかもしれません。ヴィーガンの話に終始する人の一部は、@Taroupho氏の踏まえている前提自体に同意していないのではないか。

たとえば次の4パターンがありえる。

  • C) ある規範に従うことを他人に要求してよいかどうかは、その規範が正しいかどうかで決まる
  • D) ある規範に従うことを他人に要求してよいかどうかは、その規範が正しいかどうかとは関係がない
    • D-1) なんであれ基本的に、他人に要求してよい
    • D-2) なんであれ基本的に、他人に要求してはならない

考える順序が違っていて7、C の人は「まず、ヴィーガニズムが正しいかどうかを決めないことには他の話ができないだろう」と考えるのだ。とするとヴィーガンの話ばっかりしていても特におかしくないことになる。まあ D-1 に C-2 で返したら「何の話をしてるんだ?」と思われても仕方ないのだけど。

しかし、もしかすると発端の@otapediatrician氏も実は D-2 ではなく C-2 のつもりでいて(私も最初 D-2 にしか思えなかったんだけど、よく読むと C-2 の可能性を否定していない)、それに対して D-1 で返したため乖離が大きくなってしまったのかもしれない。

混乱してきたな。実際のところ、みんなどうなんだろう? 「正義」に反発する人は、D にはとりあえず賛成するんだろうか、それとも C なんだろうか?

さらには、これらはワートリのところで述べた A-1 ~ B-2 のパターンとどのように対応するんだろうか?

正義とはヤバいものなのか

ヴィーガン文章増田には "そもそも「一部の過激なヴィーガン」の話をしていない" とあり、少なくとも@Taroupho氏はそのつもりだろう。

しかし、逆の立場として「過激な連中を『ヴィーガン』と呼ぶ」「過激な主張を『正義』と呼ぶ」という考え方をする人がいるのではないか?

これは倒錯的に見えるかもしれないけど、まずOK/NGの判断を行った後で、それぞれの集合に(特にNGの方に)名前を付ける、という順序でものごとを考える人というのは決して珍しくないように見える。いっぽう「ヴィーガン」や「正義」を単なるカテゴリだと思っている人は、過激さは別軸の性質なので、過激な人を話題にしたいのであれば言及対象を明確に区切る必要がある、と考える。

「異質なもの」に名前を付け、自分が普通だと思うものはわざわざ意識的に名前を付けない、という態度を批判しているのが次の記事です。

note.com

上記はまあ私好みの論調なんだけど、「本当にヤバいやつも存在するじゃないか、そこから目をそらすな」という反応がありえて、それはまあそうだという感じ。しかし何にせよ、何を批判しているのかが曖昧なままだと勘違いの連鎖にしかならんので、悪いのは本当に「正義」ですか? それに付随する他の何かが悪いんじゃないですか? というあたりを明確化していきたい。

正義とは発明するものなのか

これはヴィーガンとは全然違う記事へのブコメなんだけど、同じ「正義」の話で、目鱗感があったのでここにねじ込むことにする。

b:id:whkr そう反論されるのを見越して、あの人達は原始的な感情をメッキするための社会正義を次々と発明していくんだよね。「これは弱者を守るための正当な批判だ」と、まず自分自身を騙しながら。

不快原理主義者は、他人を不快にさせる自分のブコメを削除するべきブコメより)

なんと(なんとではない)、"原始的な感情をメッキするための社会正義を次々と発明していく" のは良くないことだという考えが存在する。これは決して異常な考え方ではないどころか、むしろ普通だと認める必要があるでしょう。上の方で述べた「倫理は主観的なものであるか」「倫理は相対的なものであるか」あたりが関連してくると思う。

で、「正義」を掲げる人のなかにもいろんなタイプがいるのであくまでその一部ではあるんだけど、「正義というのは次々と発明していくものだ」と思っている人がいる(とりあえず私はそうです)。見てくれ新しい正義を作ってみたぜ! おっいいじゃん俺それ使うわ。いやダメだね、俺の正義のほうがもっといいね。フム部分的には有用だな、この部品は俺の正義にも組み込ませてもらおう。etc.

ただし摩擦はないものとする……つまり現実的には遙かにギスギスしているわけだけど、それを言うなら工業的な発明についても、規格争いだの、金が物を言うだの、いいもの作っても広まらないだの、ラッダイト運動だのといった現実的な話はどうしてもついて回る。ちなみに技術者に広く共通する技術楽観主義というものがあるけれど、それと似て、倫理の話をしたがる人にも倫理楽観主義と呼ぶべきものがあるのかもしれない。楽観的すぎるのも考え物だが、なんでもかんでも悲観するのも非生産的でしょ~ということで要はバランスおじさんかもしれない。

正義とは理論化するものなのか

前項の続き。あんまりたとえ話ばかりするのは良くないけど、技術に喩えたついでに科学にも喩えてみましょう。

たとえば物理学者の仕事の一つは、観測した物理現象をうまく説明するような理論を発明することに他ならない(ム?と思った人は、科学的実在論をはじめとした科学哲学に興味があるかもしれない。科学理論とは何なのか、これはこれで一大トピックである)。もし何らかの理論を発表した物理学者に対して「勝手に真理を騙るな」「自分だけが正しいつもりかよ」などと怒る人がいたら(疑似科学界隈の人はこういうこと言ったりするのかな?)、物理学者としては「いやまあ現時点では自分が正しいと思ってるけど、ミスがあるとか、もっといい説明があるとか、そう思うなら自分自身の考えを書いてみなよ」と思うことだろう。

また、「目の前の物理現象こそがすべてじゃないか、なぜ理論なんてものが必要なんだ」と問われたら、まあいろんなバリエーションがあるだろうけど、たとえば「一つ一つの観測結果を主張するだけでは『だって見たんだもん』の域を出ない。それらをつなぎ合わせ、統合的に説明することで、不特定多数の人が利用できる知識となるのだ」という返しがありえるでしょうか。

少なくともアカデミックな文脈では、倫理学的な理論(たとえば功利主義とか、ほか倫理の教科書に出てきそうなあれこれ)についても似たようなことが言えるのではないかしら。どんな話題でも、理屈を遡っていくと個人の直観に照らし合わせる作業が必要になってくるので、「原始的な感情」は不要であるどころか、むしろあらゆる理論のベースである。しかし個々人の感想だけでは「だってそう思ったんだもん」の域を出ないので、それらをつなぎ合わせ、不特定多数の人が同意できるような正義を作ろうというわけだ。

しかし科学に喩えてしまうと今度は、そういう専門的な話は一見オープンに見えて、なんだかんだ参加できる人間は限られているじゃないか、という論点も出てくるかも。反知性主義(悪口じゃないほうのやつ)とか、あれこれ。それに理系と文系は実際のところ研究の方法論とかでよくケンカしてるから、上のようなたとえ話についても、つっこみどころは多いことでしょう。簡単な話はどこにも無い。

参考書籍

道徳は実在するか/そもそも道徳とは何か

ここまで、「これは倫理的に良いか/悪いか?」といった話から一歩引いて「そもそも倫理をなんだと思っているのか?」という類の話をしてきました。このようなそもそも論を真剣に考える「メタ倫理学」という学問分野があるらしい。

前から積んでたこの本を今回たまたま読んだんだけど、これが実に面白かった(前提知識はあんまり要らないはずだけど、教科書然とした本なので興味ゼロだと厳しい)。

www.keisoshobo.co.jp

この本の半分くらいを占めるのが道徳実在論、すなわち「道徳は実在するか?」というトピックです。実在というのは堅い言葉だけど、概ね「我々の心から独立して存在する」ものを「実在する」と言い、「我々の心の中にしか存在しない」ものを「実在しない」と言う。本稿の内容でいうと、上の方の「絶対/相対」「客観/主観」のあたりが深く関わってきます。

こんな形而上学的な話がなんの役に立つのか? と思われるかもしれないけど、たとえばはてブを眺めていて、いろんなブクマカがそれぞれ固有のメタ倫理観を抱え、それに基づいて発言しているのだとしたら、おまいは何を言っているんだ……という感想から抜け出し、何かが深まっ太郎になって面白いのではないでしょうか。

上のリンクの「目次」を見てほしい。どの立場にもいろんな分派があって、どれもこれも一理あると思わせてくるのだからたまらない。

倫理は相対的なものであるか(再び)

こちらは本屋でたまたま見かけて買った。新書なので上のやつよりライトですが、あらゆるメタ倫理観を俯瞰するのではなく、著者自身の考えを説明しているという感じ。

www.chikumashobo.co.jp

タイトルから察せられるとおり相対主義への批判である。私も「人それぞれだから……」で議論を閉じる態度が好きじゃないので基本的に同意しつつ読んだけど、このメタ倫理観は果たして自分のそれと同じだろうか? と考えつつ読むと、まだまだ分からないことも多いな、という感想を持ちました。いや、バーッと読んでスパッと忘れてしまったので読み返さないと具体的なことが言えない、申し訳ない。

おわりに

ぜんぜんまとめきれなかったな。

とりあえず冒頭の「概要」を再掲:

  • ある人が倫理的な主張をしたとき、それに対して「押しつけるな」という反応が返されることも多い。
  • このとき、両者のメタ倫理観に違いがあるのではないかと考えてみることで理解が進む可能性がある。

書き足りないことがあるとしたら「『議論』の精神」とかの話とかですが、まあ簡単な話ではないし、置いておきましょう。

とにかくいろんな論点を挙げるだけの記事だったので、結局なんだったんだという感想になりそう。なにしろ私がそう思っている。まあ、単純な二元論にはならんと思うよ、という点だけでも伝わると嬉しいです。

ところで偶然だけどちょうどクリスマスシーズンになっちゃいました。
こういうのもキリスト教的な「愛」の形の一つではないか8ということで、どうかひとつ。

追記: ブコメ反応

人気コメント

b:id:meganeya3 法で規定されていないことなら、なんでも押しつけられたら悪いに決まってるのでは。法や論理に拠らないなら、楽しさや有用性を前面に押し出し、ゆっくり浸透して洗脳すりゃいいのに、攻撃から入るのアホちゃう

法律との関係については、まさに書きたかったけど力尽きて省いた話題の一つですね。最近でも、雀魂広告批判 → 平弁護士の憲法解釈論による反論 → 「法律の話してないだろ」→「いや法律の話だろ」の一連の流れがありましたね。「倫理をなんだと思っているのか」に加えて「法をなんだと思っているのか」の話も必要となると、これはまだ私の手に余るな、勉強しないとな。実は法そのものじゃなくて合意プロセスの制度化の話なんじゃないかと疑ってるけど。

まあそういうのをいろいろ俯瞰して見てみたいですねって記事なんで、「決まってる」と言わずにメタ化に乗ってくれると嬉しいが(他の考えに同意しろという話ではない)、これも私の勝手な希望に過ぎない。

b:id:WildWideWeb 数年経って再会したら「あれだけ俺に説教した信念、一体いつ放棄したんだよ」と脱力するケースもあり、自分のために考え続けることには意味があるが、今日のスナップショットが他者との将来の議論に有益かは懐疑的。

脱力は分かるけど、なにが「有益」かが難しいのでなんとも言えないな。このブコメが悪いんじゃなくて、何を考えるべきかが定まらない感じ、私からすると。

b:id:kuzumimizuku 感覚的に思ったのは、「個人の主張」だけならスルーできても、その主張の補強に「正義」「倫理」「常識」などを持ち出されると実際に「主張の押し付け」が無くても反発したくなるとい(書ききれないが勉強になった)

「主張の押し付け」を切り離してもなお、というのは面白い指摘だ。トーン次第かなあ、大上段に構えられると私も嫌だなあと思う。そうでない場合、理論武装というのはすればするほどとっかかりが増えるので、むしろ大義なき「個人の主張」が一番相手にしにくいという感覚があります。

b:id:praty559 「正義を押し付けるな」「批判は構わないが要求はするな」と言ってる人も、自分が正義だと思うとき(特に多数派の場合)は平気でやってると思うけどね。

ふむ。かなり勝手な憶測だけど、たぶん、現代社会で「人それぞれ」という相対主義がけっこうな市民権を得ているので、それにひきずられて、本当は相対主義に同意していない人たちが相対主義者の言葉を流用してしまっているんではないか? という疑問が出てきましたね。

あと、相対主義に限って言っても、単純に徹底できてなくてダブスタになってる場合と、いわゆる「相対主義パラドックス」に抵触している場合とで少し話が違ってくるかな。後者については別のブコメで。

b:id:fishma 「その正義を広めるまでが教義、だから他人を攻撃する」のが許されるなら、ヴィーガンを攻撃するのが正義と信じて疑わない人間が弾圧に動いても許されるんだよね?その棍棒、なんで自分側専用のつもりなの?

毎度思うんだけど「攻撃」「弾圧」「棍棒」の指示範囲が問題かな(というかこのブコメの批判対象に私は含まれてる?)。例えば学者が他の人の学説を批判することを文脈次第では「攻撃」って言うんだけど、それ禁じたら学問全滅ですよね。いっぽうで「これはいくらなんでもダメだろ」な攻撃も当然ある。

さいきん思ったのは、表現規制がらみで言われる「創作物の悪影響」はこれと似た構造なのではないかということだ。

  • 「悪影響があることを認めろ」
    • →そりゃ広い意味ではなんでも悪影響だけど、許容範囲のやつとダメなやつを区別してよ
  • 「攻撃が許されるのかよ」
    • →そりゃ広い意味ではなんでも攻撃だけど、健全な批判と不当な攻撃を区別してよ

ってなりません? 無論その区別で揉めるだろうけど、その前の段階よりはマシかと。

b:id:whiteskunk 余談ですが、「正義」って言葉は主に政治哲学の文脈で特有の意味がある用語で、政治の話題の際はそれが話者の念頭にあるかで誤解生まれがちな印象。ブコメでは書ききれんので参考→ https://shinshomap.info/book/9784121025050.html

アリガテエ! 買いました。本稿の話題だとこの文脈把握はひとまず必須ではないと考えて区別しないことにしたけれど、なんにせよ把握に務めたほうが良さそうですね。

b:id:esbee 彼らが金科玉条にしている基本的人権表現の自由も、所詮欧米が数百年前につくった思想でしかないと思うんですけどね…なぜ絶対的真理だと思えるのだろう「君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」

私もその二つはよりどころとしたいところだけど(絶対的真理ではないが金科玉条ではあるという感じ)、それでも意見が割れるんだから大変ですよね。我々が何を信じているのかを自覚し、「金科玉条」と「所詮○○だ」を自在に行き来できたらいいんですが。

b:id:anmin7 ヴィーガンはその正義を広めるまでが教義に含まれていることは認めるが、「倫理的優位」を持ち出して他人を従わせようとするのは倫理に反するので邪悪。「従わせたい欲」をしゃぶりたいだけであるので不要。

「倫理的優位」ってのは本稿で述べた権威性みたいな話かな?

b:id:yzkuma ヴィーガニズムフェミニズムは領土問題と相似のトレードオフの権利闘争なので「権利問題が存在する」とした時点で権利侵食が生じうるから、議題になる前に「押し付けるな」という反応をするのは合理的。

これはそうでしょうね。この視点からすると最初から最後まで倫理の話じゃないんだな。「押しつけるな」と「押しつけるべきではない」とが実はだいぶ違う話である、ということか。

b:id:namaHam 正義を掲げてる人って過ちを絶対に認めないし加害行為すら正当化するので、普通の人間からすると悪党にしか見えない

本稿の「正義とはヤバいものなのか」の節はきっとお気に召さなかったことと思う。

その他のコメント

拾ったり拾わなかったりについては特に意味は無く、パッと反応が浮かんだやつだけ書いている。どのブコメも参考になります。

b:id:gcyn クリスマスですしね、自分がどんな戒律や規律のなかにいて、それを作ってたり守ってたりするのはどんな営為で、自分や身の回りの人はそれとどう関係を取り結んでいるかみたいなことを考えるのはぴったりなのかも…。

b:id:ysfm 唐突な「何かが深まっ太郎」にクスッときちゃった(別に茶化してるわけじゃなく、全体を通して面白かった、倫理大事)。

b:id:uss267 こういう風に分解して考えてみるの好きだな

嬉しいブコメ

メタ倫理、面白いよ! というワクワク感をもって書いたんだけどたぶんあまり表面化してなくて、しまったな、という感じがちょっぴりあります。

b:id:Shin-Fedor 俺の感覚はB-1かつD-1だな。真面目に考えると「押し付けるな」も「押し付けはよくないという正義」の押し付けなので、結果として封殺するのは同じ事でも、正当化の仕方に欺瞞を感じるのかもしれん。

相対主義パラドックスというやつですね。相対主義にはさらに分派があり:

  • B-2-1) 「押しつけてはならない」という規範自体も相対的なので、私はこれに同意するが、あなたがこれに同意しなくてもいい
  • B-2-2) 「押しつけてはならない」という規範だけは例外で、これは絶対的に正しい

そういえば倫理ではなく表現の自由がらみだけど、id:sangping 氏が B-2-2 と似たようなことを書いていた(→ 表現の自由性を保つために制約されるべき表現 - ドサンピン茶)。私の感覚だと B-2-1 は刹那的すぎるので B-2-2 のほうがまだ分かるかな(左派リベラルも似た問題を抱えていることだし)。なので結局のところ、「押しつけ」の判定基準が問題ではないか、と思っているところですが、いやどうなんだろう、まだまだ分からない……。

b:id:runa_way 私の理想的にはB-1だけど、実際の議論ではお行儀のいい倫理が評価され、実生活で大勢が採用する欲望重視の倫理は認められないせいで、互いの倫理を対等に言い合うことはできず綺麗事を押しつける場になり虚しい

なんだか想像できる気がする。「それは『社会的望ましさバイアス』ですね(メガネクイー」とかやりたいけど難しいでしょうな。まあ逆に行儀の悪い場では行儀のいい意見が通らないので、単純に議論は難しいねという一般論かもしれませんが。

b:id:sqrt 個人的に、この意味では「信念」という言葉を使うのが良いと思ってる(「お気持ち」だと蔑ろにされ易いし、「倫理」や「正義」だと絶対的な権威の印象を受ける人も多いから、その中間的な語感の用語として)

なるほど信念、ふむ。哲学では「信念」ってかなり普段使いする言葉だと思うけど、炎上チックな場でこれを使うと「絶対に考えを曲げないぞ」という意思表示だと取られないかしら……という、政治哲学の「正義」と似たような心配をしてしまいますね。言葉って難しいな。

b:id:type-100 主観的・客観的とは別に、「自分がどう生きるべきか」と「社会がどうあるべきか」は別の倫理だと思うんですよね。

ふむ、確かに後者だけを念頭に置いてましたね。社会自由主義的には、「自分がどう生きるべきか」を貫こうとすると他者とぶつかるので結局すぐ社会の話になってしまう……というのがあるけど、本当に社会の話ですかという批判もあることでしょう。

b:id:nemuiumen 議論が真実に影響しない自然科学と、議論が社会のあり方に影響する倫理等は同列に並べられない。後者の議論は闘争で、押し付けてなんぼ。宗旨替えは敗北で自分の世界を蹂躙されるので、そもそも議論が成立しない。

その感覚も分からないではないし、実際「現実離れ度」みたいなのに応じてそういう傾向性があるのかも? なんとなく 数学>理学>工学医学>社会科学>人文学 みたいな(雑すぎる、まるで哲学や文学の「現実離れ度」が低いかのようだ)。逆に言うとグラデーションに過ぎないので(理系が完璧クリーンでもないし、自分の損得を離れて倫理を議論することもある)、議論が成立する・しないの区分に必然性がないんじゃないかなあと思ってるけど。似た話を過去記事で書きました。

b:id:rokasouti 正義論、法哲学自然法、その他諸々の話をするしないで周回遅れになりがちな印象。法哲学の教科書なら瀧川先生のが極めて平易ながらしっかりと読み物として面白いので大変おすすめです

アリガテエ! 買いました。

脚注


  1. 事実認識の違いについても、どの調査を信用するか、どうやって統計を取るか、どのデータをどう解釈するか……という話になってくるので全然簡単ではない。いずれにせよこの記事の範疇ではない。
  2. ついでに「ポリコレ」についてももっと補足が要るなと思ってるんですが記事化に至らなかった。まあ色んな人が色んな意味で言っていて、かつ他人の用法について同意しないまま借用するという複雑なことをしているので、その列挙を試みてもいいだろう的な話。
  3. そうは言っても、どうせ直ちに現実の事象に適用して誰かを非難するのだから同じことだろう、という感想があってもおかしくはない。
  4. とりあえずいい機会なのでワートリ全巻買って読んだがなかなか面白い。部活っぽい空気感はあんまり好きじゃないというか正直嫌なんだけど、気になる箇所をある程度は意識的に無視するくらいでないと創作物を楽しむのは難しいという考えです。なんにせよなんか独特の魅力があると同時にいかにも少年ジャンプ的であり、なんてワートリ評をここでやっても仕方ないのだった。
  5. こういう文脈では「相対」の対義語として「絶対」ではなく「普遍」のほうが多く使われる印象があるけど、ここではとりあえず単語レベルの対称性を優先して「絶対」とした。合ってんのかな。
  6. したらしたで文句言うだろという反論はありそう。「文句」の種類が違ってくるはずではあるが。
  7. この「考える順序が違う」という現象は、けっこういろんな場面に共通してすれ違いの元になっている気がする。まだ横断的に整理できてないですが。
  8. これはあながち冗談でもなくて、人間、なにかしらの信仰がないと「議論」ができないんじゃないかと思っている。けどこの話題一本で語れるほどの知識はまだない。