[概要] 背景の異なる人同士の会話では、齟齬がとても発生しやすい。それを乗り越えるには「ハイコンテキストな情報をどう処理するか」との観点で大きく二つの手段がある。人によって(しばしば無意識に)どちらか一方を選択しており、これを意識することが有益かもしれない。
序
前提知識
最近、ある漫画作品の日経新聞広告について、ジェンダー問題の観点から批判が行われ、一部で紛糾したという事案があった。そして、その話題(+他の類似案件)をきっかけに、id:Shin-Fedor 氏と id:sametashark 氏というお二人の対話のなかで、ふだん見えている景色の違いなどが可視化される、という一幕があった。
時系列で:
- id:Shin-Fedor 氏:
- id:sametashark 氏:
- id:Shin-Fedor 氏:
- id:sametashark 氏:
お互い「なに言ってだこいつ」と感じている状態から展開する対話を、それぞれの視点で追体験することで、短文では伝わらないコンテキストがいかに大きいかという、言われてみれば当然の事実を、まるで実感できていなかったことに気付かされる。
Shin-Fedor 氏も「組み合わせて読むことで、全く見える景色が変わってくると思う」と書いている通り、とんでもなく有意義な記事群だと感じた。触発されてこのブログを立てた次第です。
この記事で言っていないこと
- 件の広告は規制すべきだ。
- 件の広告は規制すべきでない。
- 件の広告には問題がある。
- 件の広告には問題はない。
- その他、誰々がああするべきだ、こうするべきだ、など。1
なお、上記のことも含め、別記事として長い長いディスクレーマーを書いた。2
あと、この記事で引用した私以外による文章についても、広告 or ジェンダー関連の個別の問題に対して意見することを目的として引用したものではないため、そのように読まれないことをお願いするものであります。
現代文の時間だ!
問題意識
今回私が感じたことの一部として、次のようなものがあります。
- 背景の異なる人が会話するときの難しさとして、言語表現の違いを乗り越えることが(字面から想像するよりはるかに)難しい、という点があるのではないか。
- 一事が万事。ディスコミュニケーションの事例ひとつひとつはちょっとした表現の問題に過ぎないかもしれないが、合算したらすごい損失になっているのではないか。
ケーススタディー
一つ、上記の観点で発端の文章を見ていきたい。
なお、たとえ非難する意図がゼロでも、人様の文章をこのように細かく云々するのは失礼なことかもしれず、もしそうだとしたらとても申し訳ない。少なくとも僅かながら公益性はあると信じるものであります。
さて、両氏の対話の開始地点は、sametashark 氏の下記のブックマークコメントです。
『オタク文化に一番拒絶感があるのは40代』と言われ全く意外性がないというか『その世代が一番オタク差別の酷かった世代』なのでむしろ納得感しかない20代は普通にオタクエンジョイ勢だったし差別された記憶もないけど、線引きおかしい広告とそれを賛美するオタクには拒絶感強いですね…。/ID書かれたコメントには個別にブコメで返信してます
2022/04/23 15:32
これに対して Shin-Fedor 氏が『「賛美」してる人なんていないのでは?』と疑問を持つ。
その後のやりとりによって、疑問はある程度解消されるに至るのだが(当該記事参照)、外野からも「分かるわけない」という意見と「分かりそうなもんだが」という意見とが両方あり、いずれの反応も例外ではないと思うべきだ。
言い換えを試みる
文の後半を抜き出してちょっとだけ整形すると、こうです。
線引きのおかしい広告とそれを賛美するオタクには拒絶感が強い。
この文を、不特定多数の人間から見て、できるだけ解釈の余地が少なくなるように言い換えてみよう(先に書いておくと、「sametashark 氏がこれをするべきだった」という意見は後段で否定する)。
まず「賛美」が「肯定」を含むことは明らかだ。で、当然それ以外の要素がある。
このとき「賛美」の定義の話になりそうだけど、正確には、これは定義の問題ではない。「賛美」の辞書的な意味(詩や賛美歌を連想させる、美しいイメージを含む)については全会一致しているというのが私の考えです。
その代わり把握すべきなのは、賛美という単語選択がアイロニー3であるということだ。
つまり、普通しないような単語選択をあえてすることで、「本来肯定すべきでないものを肯定4している」という意味が生じている。かつ、そのことを強調したいという意思表示にもなっている。
よって上述の文を、あえてメチャ細かく分解して言い換えると、おおむね次のようになる(違ってたら謝ります)。
Before:
- 線引きのおかしい広告とそれを賛美するオタクには拒絶感が強い。
After:
EDIT: ここで「悪い」と「拒絶感」は冗長に見えるかもしれないが、両方必要である。これにより「理屈では悪いが不思議と拒絶感は無い」とか「悪いとは言わないが拒絶感はある」とかいった可能性が消える。
情報伝達のルートが2つある
上述の言い換えについて、たぶん、「分かるように書け」「このくらい分かれ」のいずれも適当ではないのだと思う。
このことを考えているうちに、これはハイコンテキストな情報(たいていの情報がそうだ)をどう扱うかという問題なのでは、と思うに至りました。
この記事で取り上げた発端の文章は、ハイコンテキストである、と言えると思う。7
何をもってハイとするかは曖昧だが、少なくともコンテキストを共有していない人間にはあまり伝わっていないように見える8し、sametashark 氏自身も「伝わらんだろうな」と思いながら話している。
ローコンテキストルート
上述の文の言い換えがそもそも何をしていたのかというと、多義性や冗長性を軽減したり、どの言葉がどれにかかっているのか整理したり、隠れた暗黙の前提を明示したりすることで、コンテキストを知らなくても理解しやすい形にしたのである(理解=共感 でないことには要注意)。
今回の例だと、「賛美」という語には(アイロニーによって)価値判断が含まれており、そのような判断を普段から意識しているかどうかで解釈難度に差が生じているため、そのへんを分解して再構成したのだった。
よくわからんポンチ絵にしてみました(「図はイメージです」案件)。
まず、こうすることのメリットはよく言われている通りである。ある種の文章(論文や契約書など)が、なぜあんなにもお堅く細かくドライで形式的なのかというと、ローコンテキスト化によって、読む人のバックグラウンドに依存しないようにすることを是としているからだ。9
あと、「蓄積」に強い(科学とか)。
一方で、直感的に分かるとおり、いろいろな面倒がある。
- 言い換える前と比較して圧倒的に長い。10
- 言い換えるのに圧倒的な時間と負荷がかかる。11
- コンテキスト自体は当然伝わらない。
- 結果的に、相互理解の範囲を広げるためには、コンテキストを少しずつ切り崩して整理・共有していく必要があり、長い道のりになるだろう。12
ハイコンテキストルート
ところで、コンテキスト含めてまるごと伝達するのもアリなんじゃないの、と考えることができる。
先に欠点を挙げると、容易に想像される通り、以下である。
- コンテキスト自体の文章化が大変である。
- 似たような体験をしていない人に向けて伝えるわけなので、結局ここでもローコンテキスト化の苦労がある。
- 一度にやりとりする情報の量が、ローコンテキストルートよりもはるかに多い。
- 切り離すと分からなくなるような情報を渡すのだから、そりゃそうだ。
いっぽうで、メリットについては今一度再認識してもよいのではないかと思いました。
というのも、sametashark 氏が後日投稿したブログ記事は、まさにこちらのルートを通っていると言える。そしてそれは、どうみても一定以上の成功をしていて、少なくとも私にとってはいろいろな気付きがあった。
情報伝達のルート選択には人それぞれの選好がある
まず、短文での情報伝達ではどうしようもないケースがあるという事実は、言及されている通りである。
で、少しばかりリソースを投入するとして、
- ローコンテキストルート
- ハイコンテキストルート
どちらのルートを選ぶか?
(いちおう書いておくけど、これらはこの記事内での呼び名です)
これは、人によってかなり違いが出るんではないでしょうか。
「選ぶ」どころか、下手すると普通はどちらか一方しか頭に浮かばないかもしれない。13
このことを頭の片隅に置いといても損はないんではないかと思った次第です。
「なぜそんなに細かい言葉尻を気にするのか」?
細かい論理的なつっこみに対して、このような反応をする人をよく見る。
ローコンテキストルートでは、まさにそれが相互理解に必要(どころか最重要)であるからこそ確認しているのだ。14
しかしハイコンテキストルートを通る人からすると、確かにこういう感想になって然るべきかもしれない。
上の方で「一度にやりとりする情報の量が多い」という欠点を挙げたが、これには逆に、細かい解釈エラーは受け手側で補正することができるという面もある(冗長なデータは破壊に強い!)。それを基準に考えると、ローコンテキストルートでは余計な苦労をしょいこんでいるように見えても不思議ではない。
こうしてみると、どちらのタイプにもそれなりの理由があるんだな、という心構えができないだろうか。
現実に摩擦を回避するのは実際のところそうとう難しく、何の解決にもならないかもしれないけど。少なくとも、相手の人格を疑う前にワンクッション置くことの理由くらいにはなるかもしれない。
「属人的な情報は考慮に値しない」?
という意見も多く見かけたんだけれど、これについては部分的には同意しつつ、結論には賛成しかねる。
確かに、個人の体験などに根ざしていて属人性が高いような情報(「お気持ち」と揶揄される)は、何らかの判断を根拠づけるための材料としては使えない。
しばしば批判者が極端な例として出すように15、
- 私は傷ついた。
- ゆえに、規制するべきである。
というのは妥当16ではない。
上の二つの命題の間に細かいステップを挿入したとしても、おそらく同様である。
では「考慮に値しない」かというと、それは飛躍だと思う。
議論において、話を論理的に組み立てる作業は、たとえ話をすると、製造業における部品の組み立て(またはその設計)の工程に相当する。他の仕事として、マーケ・製品企画・材料調達などがあるはずだ。
つまり、議論においては:
- 目的
- 何を議論するべきか?
- 前提
- どのような事実認識をするか?
- どのような価値観を最低限共有するか?
といった問いに答えるにあたっては、完全に非属人的な作業にはならず、元を辿れば個人17の経験や好悪に行き着く。
その点、属人的だろうとなんだろうと、なにかしら情報はあったほうがよい。Shin-Fedor 氏が「お気持ち」について言及していたのも、近い趣旨だと思っています。
そして、そこから先は論理的に結論を導けばよい。18
その他のディスコミュニケーション事例
最初のほうでも書いたが、一事が万事である。
たとえば、両氏のたった数往復のやりとりに限っても、ちょっとしたディスコミュニケーションが他にもいくつか発生している。
2つ挙げてみよう。
質問と応答の形式
それぞれの記事内で、次のようなくだりがある。
- Shin-Fedor 氏: 違うなら「違います、こうです」と言えばいい。
- sametashark 氏: 何度か言ってるんですけどね。定型文じゃないとだめですかね。
これは一般的にもよく合意に失敗する話で、少なくともある種のコミュニティのなかでは「定型文」が推奨されていることも確かだ。若干違う例だけど、たとえば先月ホッテントリに入っていた次のような話である。
これは「コミュニケーションコストを誰が負担するか」という話でもある。
- 各自自由に話す場合
- 話し手側は、なにかを発言する際には普通に思いついた順に話せば良い。
- 聞き手側は、解釈・整理(再質問なども含む)のコストを負担する。
- 一定の形式を推奨する場合
- 聞き手側は楽である。
- 話し手側は、発言に先だって発言内容を整理するコストを負担する。
上の記事の会社(あるいはその他いろいろな場面)で後者が採用されている理由には、一対多のコミュニケーションでは聞き手側の負担を減らさないと合計コストが上がってしまうという側面もあるだろう。あと、話し手と聞き手には情報の非対称性があるので、どちらかといえば情報を持っている話し手側に責任がある、というのもある。
で、このような規範が一般に適用されるかどうかは意見の分かれるところです。
日常会話はともかく、いわゆる「議論」の場ではこういうことについて気をつけるべきであろう、と考える人もいれば、ボランティアで会話に参加しているのになぜそんな要求をされねばならんのか、と考える人もいて当然だ。
言葉の意味
上のほうで「賛美」は定義の問題ではないと書いたけど、定義19のズレが問題になるというケースは確かによくあります。次のくだりがそれだ。
- Shin-Fedor 氏:「(中略)は許さない」という趣旨で合ってる?
- sametashark 氏: 「許さない」はどこから?
ここで「許さない」の解釈を試みると、
- 「許可しない」という意味であれば、後に sametashark 氏が書いているように「許さない権限なんてあるわけがない」という話になる。
- 「許容しない」という意味であれば、これは自分の受け入れ方の話になるから、原文の「拒絶感」の言い換えとしても悪くはない。
どっちの解釈が普通かというのはこの場合難しいな。
この程度のズレは必ず発生するものだと思うべきだ。
あと、これはバックグラウンド云々はあまり関係ないような気もするので、この記事の趣旨からすれば余談でした。
EDIT: これも結局バックグラウンドの話だった。「相手とコンテキストを共有できている」という認識があれば(そして実際その通りであれば)、「たぶんこういう意味で言ってるんだろうな」という推測を的中させやすくなる。そうでない場合、なんの努力もせずに一致させるのは不可能だ。結果、言葉尻をチマチマつっつくか、「お気持ち」をドワーッと共有するかの二択になるわけだ。
終わりに
まとめ再掲
冒頭にも書いたけど、再掲します。
- 背景の異なる人同士の会話では、齟齬がとても発生しやすい。
- それを乗り越えるには「ハイコンテキストな情報をどう処理するか」との観点で大きく二つの手段がある。
- 人によって(しばしば無意識に)どちらか一方を選択しており、これを意識することが有益かもしれない。
後書きめいたもの
記事を書く過程のなかで考えが進んだ部分がけっこうあって、それだけでも、書いてよかったと自分では感じます。 逆に言うと、思いついたばかりの話も多いので、いろいろつっこみも可能だと思います。
貴重なきっかけをくれた Shin-Fedor 氏と sametashark 氏に改めて感謝します。
というか既に終わった会話を蒸し返すようなことをしてしまってすみません。
書かなかったこと
- 「手段は人それぞれ」みたいに書いちゃったけど、利害が衝突するとき、それじゃ困るんだよという話は残る。これはまたなかなか難しく、かつ別の話であろうから、この記事では置いておきます。
- 「党派性」とか「当事者」とかいった概念にも関心があって、ムニャムニャ考えたんだけど、もう十分長くなっちゃったので、また機会があれば。
- これは冗談なんですが、第三の選択肢として、「みんなで罵倒スキルを上げる」というのを思いついた。華麗な罵倒を放つ人が増えればエンタメ性と競技性が生まれ、雑な罵倒をする人の評価が下がり、プラマイではちょっとだけ不快感が下がるという説。ないか。(少なくとも私には不利な社会だ)
外部リンク
本稿の主旨とは同じではないかもだけど、問題とされた広告の件を起点とした、投稿時点で私が閲覧済みの記事です。こちらも有意義だなと感じました。逆に言うと他はあまり探してない。
- id:hepta-lambda 氏: 「月曜日のたわわ」広告、実際に日経新聞の紙面を見た感想(ブコメ返信追記その3まで) - hepta-lambda’s blog
- id:nowa_s 氏: 見えてる世界が違うこと。 - trajectory
あと、関連すると言えるかは分からないけど、コミュニケーションの話として(なお私に前提知識は全然無い):
蛇足
五分って半分だよな。なにもうまくない。
脚注
-
具体的な話題に依存しない原則論みたいなのは話すことになるけれど、少なくとも某広告や特定個人に対してではない。↩
-
ディスクレーマーと言いつつ、あまり免責効果は無いと思っている。↩
-
アイロニー、日本語では皮肉のことだが、この言葉は否定的な含意が強すぎる。ここでは単に修辞技法(レトリック)の一つであるに過ぎない。で、レトリック全般を推奨しないという立場の人もいるけれど(少なくとも公文書や契約書のなかではそれが普通だ)、その規範を世間一般に求める場合、強めの主張だと言わざるを得ない。人間がものを書いたり話したりするなかで自然にやっていることを禁止することになるからである。もちろん、限定された議論空間のなかでそのような合意がなされていること自体はよくある。本稿の「質問と応答の形式」も参照。↩
-
この場合、主語である「オタク」が実際どういうテンションで肯定しているのかは必ずしも限定されない(これは発言者の意図次第)。その後のやりとりで補足されている。↩
-
よく見ると文法上は、存在すること自体は主張していない。この主張は以降のやりとりに含まれる(し、私も同意する)。↩
-
「悪い」が適用される条件として、「肯定」の主体が限定されていることにも注意が要る(私は見落とした)。以降のやりとりで補足されている。↩
-
苦しいか? とも思ったんだけど、すいません、区別するための中立的なカテゴリーが欲しかったんです。↩
-
実は私も最初まったく分からなかった。記事を読んだ時点で「そういうことか!」となりました。↩
-
「コンテキストを知らなくても読める」というのは、「簡単に読める」ことを意味しない(たとえば数学は万人に開かれており、万人にとって難しい)。あと、ローコンテキストな文章を蓄積していくと結局それ自体が巨大なコンテキストになるという側面もあるが、少なくとも属人性が低いという利点は残る。↩
-
短文ひとつを言い換えるのにも数時間かかったりする。私はかかった。↩
-
とはいえ、なにも一度にぜんぶ共有しなくても良いはずだ、という考え方もできる。要所要所では論理的な形式に則りつつ、漸進的に認識齟齬を埋めていけば、結果的には必要なコンテキストの大部分が共有されることになるかもしれない。なんだかウォーターフォールとアジャイルみたいな話だ(適当なことを言ってます)。↩
-
私などは真っ先にローコンテキストルートを考えてしまう。↩
-
ややこしいことに、ほんとうに粗探しを目的とする人もいる。これ自体は一種の政治参加と呼べなくもないのだが、目的が相互理解なのか攻撃なのかが周囲から判断できない(あと、意外と曖昧なので途中で変わったりする)というのは、いろいろな問題を難しくしている。↩
-
「こんなこと言う人はいない」というのはナシだ。いるかもしれん。↩
-
「妥当」というのは論理学の用語だけれど、この場合、一般的に想像される通りの意味で考えてもよい。↩
-
「個人」と言い切っていいかどうか分からないところはある。社会通念とかをどう判断するのか。↩
-
ただしここでさらに面倒な話をすると、「論理的な議論を是とする」という条件下でなければ、この理屈は必ずしもあてはまらない。現実では、政治的な闘争の側面もあるので、もっと他の理屈をつけて論敵を退けるケースが考えられる。↩
-
「定義」という言葉にもいろいろな定義があるので、闇雲に使わないほうがいいらしいんですよね。ここでは「意味」かなあ。「意味」も難しいよな。↩